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東武東上線直通有楽町線各駅停車のせい
有楽町線で埼玉の実家に帰るのは難しい。
金曜日の夜、PCを見続けたためか霞む目をこすりながら東西線に乗り込む。メトロでの移動はだいぶ慣れたがやはり苦手だ。どこへ行くにも本を開くには短すぎ、LINEをチェックするには長すぎる。どのような顔をして電車に乗っていればいいのか分からない。
飯田橋で降り、有楽町線ホームへ向かう。エスカレーターをのぼり、壁も天井も白い細い通路をひたすらに歩く。階段に掛けられた案内はJRへの道順のみを示す。一度改札を出て今度は広い通路をひたすらに歩き、改札横にあったお菓子屋さんを思い浮かべ、実家へのお土産にシュークリームを買えばよかったと後悔しつつ階段を下りる。有楽町線・南北線ホームへの改札を入るとスーツの男性が角ばった平たい箱を提げているのが目に入り、彼に倣って期間限定出店のケーキ屋さんで横浜チーズケーキなるものを買った。
ホームに立ち、箱が水平になるようビニール袋を腕に提げ、本を開く。来た電車に反射的に乗ると清瀬に連れてかれてしまうから、電車が来るたび車内の電光掲示板に示される行き先を確認する。各駅停車、川越市行……乗りたい電車と行く方向は同じだが、各駅停車では狙っている電車への乗換えができないのではないかと不安になり次を待つことにした。数分後、乗りたいと思っていた森林公園行の電車がホームに滑り込む。アナウンスが各停であることを告げる。飯田橋で待つか、次の乗換駅で待つかの違いだったようだ。意外と電車は空いており、荷物を網棚に上げ席に座って本を開く。今年も新潮社のプレミアムカバーの『こころ』を買った。読むときはダストカバーを掛けているので気にならないが、真っ白な表紙にゴシック体でタイトルが書かれた今年のデザインは大分ダサい。実家に帰るときしか聞かない駅名に、自分がどこにいるのかいまひとつピンとこず、緊張しながら頁を繰る。
「次は和光市駅です」というアナウンスにほっとする。次で乗換えだ。なかなか長い道のりだったなと栞の挟まった頁からの紙の厚みで確認したところで電車の速度が落ちた。前の電車との間隔調整のためだと一時停車し、2,3分後に運転再開となった。
和光市駅で乗り換える予定の電車はちょうど数分前に発車していた。次の電車まで15分。母親に、到着が遅くなると連絡する。予定通り20時に到着すればまだしも、さらに遅くなるとなると父親は夕飯を待ってはくれないだろう。電車に乗り、再び本を開く。実家の最寄り駅の数駅前で長い長い遺書を読み終えてしまった。
駅を降りると同時に実家の車がロータリーに入ってきた。
ドアを開くと、母親がお疲れ様と声をかけてくれる。食事は途中だという。
20分ほど走ってようやく実家にたどり着いた。
食卓には私の分の天ぷらが大皿から取り分けられていた。ちょっと電話するねと、母親は席に着かずどこかへ立ってしまう。あまりの空腹に母親を待たず天ぷらに箸をのばす。冷めて油の戻ったイカの天ぷらをぐにぐにと咀嚼する。クーラーの利いた部屋。目の前の父親の席は空いていて、食べ終えた食器だけが残されている。温めたら美味しく食べられるかと思ったが、さらにべちゃっとするだろうとそのまま食べ続けた。いつもどおりラジオアプリで夕べの放送を聞きながら、衣のはがれかけたエビの天ぷらを食べる。油でぬらぬらとした甘いエビ。衣をとってエビだけで食べようかとも思ったが最後皿に残された空っぽの衣を想像してやめた。キッチンペーパーで油切りしようかと思ったが、もう食べてしまったイカとエビの天ぷらを否定するようでできなかった。
母親が電話を終え、私の隣に座る。ご飯の途中で迎えにいったと思ったら全部食べていたわね、と空いた自分のお茶碗を見ながら笑う。私も久しぶりに天ぷら食べた、美味しいねと笑ってみせる。しかし、食べ続けるうちに油がどうしても気になり、時間がたった天ぷらは難しいねえと母親に訴える。時間通りに帰ってきてたら熱々のが食べられたはずなんだけどとキッチンペーパーを持ってきてくれた。
油を落とし、ナスの天ぷらをむにむにと咀嚼する。実家で一人で冷めたご飯を食べることになるとはと嫌味っぽく言いながら鶏天をもさもさと咀嚼する。
取り分けてくれていた天ぷらを食べ終えたとき、両親と3人で美味しい天ぷらを食たべたかったなと思い、急に涙が出てきてしまった。
何で泣いてるのよと驚く母。ごめんとそのまま2階の自分の部屋に上がる。クーラーをつけ、ブランケットを被り、声を上げながら泣いた。ひとしきり泣いて落ち着き、ダイニングに戻る。母親が梨をむいて、あんたの食べ物に対する執着心にはびっくりするよと笑ってくれた。
白い梨にフォークを刺す。サクッと音がした。
でも、と私は弁解を始める。
ひとりで冷めたご飯を食べたのがつらかったんだもん。一人暮らしで一番嫌なのは食事なの。どこ見てご飯食べればいいか分からない。油切りながら温めて食べればよかったのかもしれないけどおなか空いてたの。だからお母さんが電話終わるの待てなかったんだもん。でも、一番嫌だったのは、遠まわしに愚痴を言いながら食事をしたこと。どうしても我慢できなかった。全部私が悪いんだけど、お母さんのせいみたいにしちゃってごめんね。でも、有楽町線が時間通りにくればよかったんだよ。
そして、これ、食べていいの?と最後の一切れの梨に手を伸ばし、これじゃ小学生だよねえと笑いながら梨をサクサクと咀嚼する。
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跳ねろ、跳ねろ、身を揺すれ
跳ねろ、跳ねろ、身を揺すれ
行列の中のひとりなのか?
いいえ――わたしを見るのだ、誰よりも輝くわたしを見るのだ
青森ねぶた祭り2日目、パイプいすで設営された有料観覧席に座り団扇を仰ぐ人々ひとりひとりの目を捉えながら国道7号線を飛び跳ね進んでいく。
屋台で腹ごしらえをしようと思っていたのに、ハネト衣装の着付けに並ぶ列が予想以上に長く時間がかかってしまったのでゆっくりお祭り気分を楽しむ間もなく、コンビニスイーツでカロリー摂取。
ポカリスエットのペットボトルも買って気合十分、一際賑わっていた青森菱友会に紛れ込む。
夕日も沈み始めた19時ちょうど、ハネト達の後ろで、眠っていた獅子が立ち上がり吼えるかのように、出陣しようとねぶたが持ち上げられた。鬼を従え朝廷に反乱を起こす藤原千方と、彼を討とうとする紀朝雄をかたどったねぶたが薄闇に煌々と浮かぶ。高揚していた気分も待ち時間の間にいくらか落ち着き、その姿に出陣の気合よりも雄雄しさへの畏怖の念が湧く。
しかし見とれている間もなく「ラッセラー!!」と声が上がった。
その音頭に進行方向を振り返ると、「ラッセラッセラッセラー」とまだ薄い声を上げながらハネト達がぱらぱら跳びはじめていた。ワンテンポ遅れて隊に詰め寄り、見よう見まねで右足、左足、交互に跳んでみる。すぐに慣れ、ハネトの隙間を縫って、より賑わう隊の前方へ出て行く。
跳び続け、みな疲れが出てきたのか、盛り上がりがやや落ち着いたころ、休憩がてら隊を抜け、次はどこの団体に紛れ込もうかと歩道を歩いていると、夏の夜の心地いい風が吹き、ここは熱帯夜に魘される東京ではないのだと思い出す。そして早くもハネトの中にいたときの熱気が恋しくなり、今度はあおもり市民ねぶた実行委員に飛び込んだ。遠く前方に一際賑わっている集団があり、そこにはゴンドラに乗って音頭をとる女性の姿があった。それを目指して急いで飛び跳ね、ゴンドラのすぐ後ろに着く。
音頭をとる役が交代する合間に足を止め、周りを見渡す。
となりの女性はからだをくの字に折り曲げ腕を目いっぱい振りながら飛び跳ねている。
斜め前では背の高い男性二人がからだを揺すり、じゃらじゃらと背中にさげた鈴を鳴らす。
後ろからハネトがどんどん押し寄せてくる。
――両足を地に着けている場合じゃない。
声を張り上げ身を揺すり、休むことなく跳ね続ける。空になったペットボトルを突き上げる度、もっと激しく、もっと大きく、そしてこのまますべてを飲み込んでしまいたいという欲望が膨らんでいく。凶暴と言っていいほどに飢えた気持ちに踊らされながら、沿道で悠々と行列を眺める人ひとりひとりの目を捉え、私のこの狂乱に気付けと念じる。
からだの向きを変えると、ひとりの若い男性と目が合った。それまでの距離を保ちながらも、明らかにお互い相手の存在を意識している。節が繰り返される毎に相手の声が大きく聞こえるようになる。このまま身を任せることに、初めての領域に踏み込む際のかすかな恐れを感じ、間合いを取ろうとするも何故か距離は近づいていく。音頭に合わせて声を上げ続けていたはずだが、音は漂うばかりで今度は何も響かない。逃げられないほどに距離がつまり、彼と高い位置で手を合わせる。瞬間、手を握る。そして手を離せば再び祭りの熱がぶり返し、互いに波の中へ戻っていく。
跳ねて跳ねて進み続ける。ささやかに下げた鈴を乱暴に揺すり、私に巻き込まれてしまえばいいと辺りに発散させる念を増幅していく。
さて、祭りはどうやって終わったのだったか。念の代償はふくらはぎの痛みとして今もまだ払い続けている。
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ひとりひとりの苦しみを
――生きるため、描き続けた。
相手を気遣うように腹びれを伸ばし、語り合うように向かいあうアマダイが暗い海の中で輝く。
国立ハンセン病資料館の企画展「キャンバスに集う~菊池恵楓園・金陽会絵画展」のポスターとして、奥井喜美直氏の油彩『アマダイ』に重ねられた冒頭の句を見つめながら、「生きる」ことに思いをめぐらせる。
7月9日、ハンセン病家族訴訟について熊本地裁が国に対して賠償命令を下し、国はそれを控訴しないことを決定・発表した。
それから連日、訴訟に関する報道や批評家のコメント等が飛び交う中で、国立ハンセン病資料館という施設が東村山にあることを知る。そのときなぜか、漠とした、だが強い興味が沸き、この間の日曜日に当地へ向かった。
資料館では、ハンセン病とそれをとりまく社会の歴史やハンセン病患者の人生について、文献等の展示や映像資料の放映を通して知ることができる。
報道や教科書による簡単な知識の中で苦しむ「ハンセン病患者」「らい予防法による被害者」等と表現される人々は、私にとって抽象的な存在でしかなかった。しかし、資料館の年表で淡々と連ねられていく凄惨な事実や、カメラの前で自身の経験を語る姿に、苦しむ人々の存在が浮かび上がっていった。
病への偏見や体制に翻弄されたひとりひとりの取り返しのつかない人生に胸が痛む――胸を痛めることしかできない――。
帰りの電車の中で、展示を見ながら考えたことをぽつぽつと語り合う。1950年代、WHOによりハンセン病は治る病との声明が出されたが、日本では、ハンセン病患者の強制隔離を定めたらい予防法が撤廃されたのは1996年のことだった。なぜそんなにも遅れたのだろうかと、戦後復興の歩みと重ねながら仮説を導いていく。無力感に襲われてしまうような仮説は割愛するが、あながち間違ってはいないだろう。
なぜ私はハンセン病資料館に行ってみたいと思ったのか――そもそも私は普段何に興味を持っているのか、資料館を訪れた日を振り返ってようやくわかったように思う。
ソ連崩壊の影響を一般市民へのインタビューによって描き出したアレクシェーヴィチ「セカンド・ハンドの時代」を読んだとき、歴史上の出来事の下には人間ひとりひとりの生活があるということを改めて突きつけられた。それまでは大きな力が世界を動かすのであって、私たちの生活はどこか別の世界の動きとは切り離されたところにあるような気がしていた。
しかし、それから数年たった今でも、そうではないと断言できる自信がない。だから私は自分がどこに生きているのかを確かめるために、世界で起きている事象について、渦中の人々の顔が見えるところへ行きたいと熱望するのだろう。
エゴに満ちた目で、人々の顔を覗き込む自分に気づく。そんな目に、人々は眼差しを返してくれるのか。見渡すだけの世界は、いつまで経っても別世界だろうに。
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un parfait
ねえ、最後に会ってから1年以上経つ友人の前といってもね、私はパフェを食べているの。
1ヶ月前に、1年半付き合って結婚を考えていた男性と別れたといってもね、
それから1週間としないうちに新たに恋人ができたといってもね、
私はパフェを食べているの。
甘くて、甘くて、甘くて――
グラスの中でアイスが溶けてしまうのも構わずスプーンを置いて
オリジナルブレンドの紅茶を口に含む。
コーヒーにすればよかったとすこし後悔。
1回目。
桃のカットがまだてっぺんを覆っているからスプーンをグラスの下に敷かれたレースへ迷わず置く。
2回目。
溶けはじめたアイスと刻まれた桃、それからジェリーが混ざり合い、それはちょうどスプーンの先が埋もれる程の嵩。金属を漬け込むようでためらわれるけれど、スープをいただくときのマナーに倣えば、グラスの中に立てかけるべきか。内側に、どろりとクリームのついたグラスへ柄を立てかける。
3回目。
最後の一口が惜しくて液体と化したアイスを見つめながらスプーンを置く。白というよりも黄色、黄色というよりも白いそれは、グラスの底から強烈な芳香を放っていた。
ねえ、
甘いものの合間に辛いものが食べたくなってしまうほどに、私は大人になってしまったの?
いつまでも甘さに溺れていられないほどに、私は正気になってしまったの?
その繊細な幸福はもう思い出せない。
甘かった、それだけ。
甘いって美味しいってことだったか、それさえも思い出せない。
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全能感
夜8時半、ジムに行こうと家を出る。仕事終わりにスーパーを出たときに降り出した雨はまだ降っていた。傘に当たる不規則な雨音が心地よかった。
ランニングにも使えるスニーカーは水に弱いが浸みるほど雨は降っていない。
夕飯のメニューは糖質高めだったがお昼は食べ損ねている。
Tシャツにスパッツ姿だが暗いから目立たない。
ジムとは別の方角へ歩き出す。財布は持っていない。
高層ビルの光がぬらぬらと運河に揺らめく。
濡れた道路を車がサーーーーーっと音を立てて走り抜ける。
新豊洲駅の交差点で雨がやんでいることに気づいて傘をたたむ。
1時間ほど歩いてようやく市場前駅に着く。
屋上緑化広場へ繋がる水産中卸売場棟のエレベーターを目指す。
明朝に向け、青果棟へ吸い込まれていくトラックを尻目に広い歩道を歩く。
エレベーターを降り、5階の高さに位置する歩道に立つ。遠く光の点が水平線を引くだけで目線には障害物がなく、雲に覆われた暗い空が広がる。足元灯がまっすぐ延びる歩道を照らすが、誰もいないことがわかるばかりだ。
少し緊張しつつさらに階段を上がる。
上りきり、まずはオレンジ色の東京タワーに目が行く。
庭園の縁まで行こうと足を進めるとスニーカーの裏に芝生を感じた。踏みしめたその瞬間、両腕が翼に変わるような感覚があった。
六本木や赤坂、レインボーブリッジの光を前に、広い放たれた空間でひとり大きく息を吸う。
それだけで満足してしまった。体力のあるうちにと、来た道を1時間かけて戻る。
東京らしい景色が好きだ。
うまくいかないことがあるとよく永代橋から佃島を望み、目の前のことに精一杯で窮屈な毎日の所在を確かめる。
何かになれるという希望が私を生かすのだ。
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父の日の前の週の出来事
「いつ帰るんだ」
土曜日の朝、食事が済み、新聞を広げた父が問う。
金曜日は夜遅くに帰省したので、父と食卓を囲むのは2か月ぶりだった。
帰省といっても、ひとり暮らしをする東京から埼玉の実家は電車で2時間程度なので、いつでも帰れるし、いつでも会える。両親とおなかいっぱい朝食を食べたら久しぶりの実家を満喫した気がして、昼前には戻ろうかと考えていたくらいだった。
しかし、父にそう聞かれると、もう家を出るとは言いづらかった。
いつでも帰れるし、いつでも会えるけれど、いつでもは帰らないし、いつでもは会いに行かない。電車に2時間乗るには何でもいいから理由が必要だった。
今回は、函館土産を渡したいから帰っておいでと母に呼ばれ、夕飯まで一日実家で過ごすつもりだった。本を読んだり勉強をしたりするつもりで重いバッグを提げてきた。でも、なんとなくひとり暮らしの部屋に戻りたくなっていた。早々に戻ったところで何もしないかもしれないが、何かしたいと思ったときに動きやすいからだ。そわそわしていた。
母が「いつ帰るんだ、なんて、早く帰ってほしいみたいじゃない」と笑う。父は新聞からちらりと目を上げ「そうじゃないんだ」と返す。
父が、客人が帰り、日常に戻れるのがいつなのか算段しようとしたわけではないことを私は知っていた。私の帰省を楽しみにしていたなんて口が裂けても言わないし、嬉しそうな素振りも見せなければ不在にしている間のことを聞きもしない。それどころか、さっさとひとり新聞を広げてろくに会話もしようとしない。それでも、父は私に長く実家に居残って欲しがっている。なんだそれ、とも思うのだが、私には分かってしまう。
父の頭の中はやらなくてはならないこと、やりたいことでいつもいっぱいだ。娘が帰省しても一緒に出掛けたりするほどの時間は割けない。娘が元気そうで、家の中の空気が少し変わるだけで十分なのだ。ただ、それがほんのちょっとの時間だと寂しいから、ただ、自分が慌ただしくして知らない間に私が帰ってしまうと寂しいから、不器用な父は私の帰る時間をそんな風に確かめる。
父がそう語るわけではないのが、私はあまりにも父に似ているので分かる。親の心子知らずと言うほど、もうそんなに子どもじゃない。
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小学3年生とおとな
5月も後半へ差し掛かる頃、さわやかな快晴の日が続いた。広々としたところで本を読んだらさぞ気持ちよかろうと思い、土曜日の朝、早く起きられたので千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館へ行った。この美術館はさまざまな植物が植えられた庭園を有しており、新緑のこの季節はブナ林が特にきれいだ。
園内を一通り散策して、レストハウスのテラスで本を読む。頭上にかかるまだ明るい緑の柔らかな葉から透ける光が風に合わせてちらつき、その度に顔を上げるのでなかなかページが進まない。遠くに目を遣れば、芝生で遊ぶ家族や木陰で休む恋人連れに気づく。楽し気な雰囲気に惹かれてしばらくぼんやりと眺める。
日が暮れるまでずっとこのまま、本に手を添えながらここに座っていたかったが、夜に人との予定があるためそれはできなかった。最後にもういちど庭園を回ろうと、まだ日が高い時分に重い腰をあげた。
来たときは正体がわからなかった、ボチャンと水に入る生き物の正体を確かめようとハス池を覗いていると、小学生くらいの兄妹が隣にやってきた。ファミリー向けのアウトドア用カートに妹を乗せ、お兄ちゃんがそれを引いていた。妹はカートから身を乗り出し、お兄ちゃんは池の淵にしゃがみ込む。そばであんまりにも楽しそうにしているものだから、つい、何がいるのかと尋ねたところ、カメがいるとお兄ちゃんが教えてくれた。そのまま立ち上がって「いつもこっちにいるんだよ」と言いながら歩いていってしまうので、ついて行っていいものかと迷いながらも後を追う。
お兄ちゃんは「ゲンカメいるかな~」と池の淵をそっと歩く。何も答えないでいると「赤ちゃんかめのことをお父さんがゲンカメって呼ぶの」と私のほうを見上げる。今年の冬に生まれた弟がげんちゃんなのだ。
私のほうが先にゲンカメを見つけた。「いたよ!」と声を上げると、妹がカートの上で立ち上がるので、お兄ちゃんは手を貸して降ろしてあげた。
ほかにもゲンカメはいないかと、日向ぼっこしているカメが驚かないように3人でそっと池の周りを歩いた。しかし、ゲンカメを見つけられないうちに、私は帰りのバスの時間が心配になり「そろそろ帰らなきゃ」と切り出すと、お兄ちゃんが「もう帰っちゃうの」と聞いてきた。
はしゃぎたい盛りの子どもたちに不用意に声をかけて、池淵に留め置いていたのを心苦しく思っていたので、名残惜しそうにしたのは少し意外だった。
私の知っている子どもというのは、大学生のときにしていたバイトの子ども向けイベントにきている子どもたちで、偶のショッピングセンターへのお出かけのためか、彼らは目いっぱい親に甘えていた。ほしいものをねだり、帰りたくないと服の裾を引っ張ってもう少しもう少しと楽しい時間を引き延ばす。かわいらしかった。
しかし、小学3年生のお兄ちゃんは、その子らよりちょっと大人で、優しかった。名残惜しそうに見せても、無理を言おうとはしない。だから、私が甘えたくなってしまった。
「林の入り口まで送ってくれる?」とお願いした。バス停へ続くブナ林への入り口は、ご両親の目の届く範囲ではあるが、ハス池からは少し距離がある。それに歩いて見送ってもらうだけだから3人で遊ぶわけでもない。それを分かった上でお兄ちゃんは快諾してくれた。
しかし、カートを引きながら歩くには遠いようで、妹には待つよう言いおいて私と並んで歩き始める。
「高校生?」と聞かれて驚く。なんと答えればいいのか分からず「大人だよ」と言う。その答えに満足していない顔をするので「いつもはお仕事してるの」と付け加える。
それでも物足りないようで、ようやく気づく。小学3年生のことを全然知らないな、と。私も小学3年生を通ってきたはずなのだが、もうだいぶ遠い。
「大人」という答えには満足できないが、「会社員」と答えたとき、彼は理解できたのだろうか。しかし、高校を卒業したのは何年前だったかと数えなくてはいけないような私に高校生かと聞くほどに彼は小学生だ。
ブナ林の入り口までたどり着き、ありがとうと伝えると、さらにバス停まで送っていくと申し出てくれた。お母さんたちから離れちゃうからと断ったが、彼はいきなり走り出す。ハイヒールで林を走るのは大変で、引き離されながらついていく。
途中、開けたところにベンチがあり、ちょこんと座って待っていてくれたが、私には座らせる暇は与えてくれず、立ち止まろうとする私の手を引いてずんずん先を行く。
きらきらと光が差すブナ林はきれいで、今日はそれを楽しみに来たはずだったが、ゆっくり眺める余裕はなく、彼が一方的に話す学校での出来事にうんうん頷いているうちに間に林を抜けてしまった。息は上がったままだが、とりあえず、再度「送ってくれてありがとう」と言うと、彼は「じゃあね」と手をふらりと挙げ、きた道を引き返してしまった。
拍子抜けだ。
遠慮の言葉は意にも介さずさらりと手を引いて一緒にいてくれるのに、そんなにあっさり別れてしまうなんて。
私、そんなにつまらなかった?
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「いま?信州にいるのよ」
3月半ば、友人からGWの予定がないと連絡がきた。彼女と出かけるのであれば、おしゃれなカフェを巡ったり、買い物をしたりするのもいいのだが、せっかくの長期連休なのだから遠出をしたいと考えていたところ、何故だか急に天体観測をしてみたいと思いいたった。月齢を調べてみると、新月ではないにしてもきれいな星空が見えるであろう程度に控えめな月のようだったので、実行することとした。
これまで天体観測をしたいだなんて思ったことがなかったので、どこを目指せばいいのかさえ分からない。まずは「天体観測 場所」と検索してみる。どうも長野県の阿智村が日本有数の天体観測スポットのようで、バスツアーで行くのが一番楽そうであった。
美しい星空が見れさえすればよかったので、目的地だけ確認し、旅程の詳細はほとんど確認せずに参加した。
規則的な揺れと密閉空間による空気の薄さのためか、友人はひたすら眠っていた。おとなになって三半規管が強くなったのか、鈍くなったのか、大型バスであれば読書ができることに気づいた私はひたすら本を読んでいた。
2時間前後で挟む休憩のたびに添乗員さんより次の目的地が告げられるが、聞きなれない地名に自分たちがどこにいるのか、どこに向かっているのかは判然とせず、また、組まれた旅程に積極的に関与する気も起きず、ただただ運ばれていく。
本も読み疲れ、車窓を眺めながらとりとめもなく考えごとをしていたところ、前の席の60過ぎの女性の携帯電話が小さく鳴った。「いま?信州にいるのよ」と彼女は答え、数語言葉を交わしてから電話を切った。
電話しても大丈夫な状況か聞かれたのだろうか。せっかく旅行に来ているのにバスに乗っていると答えて電話を切るのでは味気ないから、旅先を伝えようにも彼女もどこにいるのか――どこに行こうとしているのか分からず、苦し紛れにおおざっぱな所在地を答えたのだろう。
その夜、星空を見ようと一行で高原まで行ったが、厚い雲に覆われた空には何も見つけることはできなかった。
私たちはどこへ行き、何をして2日間を過ごしたのだろう。
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24歳 春
先日、TBSラジオ「荻上チキSession22」で1994年に起きたルワンダ虐殺事件の特集をしていた。「ちょうど」私の生まれた年のことだと興味を持ち、リアルタイムで聞くことのできなかった個所はストリーミング放送を聞いた。
最近1994年に起きたできごとを取り上げた特集番組をよく見かける。端数であり、なぜ今更そんなときのことをいぶかしく思っていたのだが、1994年とはちょうど四半世紀前に当たることにようやく気が付いた。誕生日は秋で、まだ24歳であるためにまったくその時間感覚がリンクしなかったのだろう。
それにしても、だ。特集を聞くまでルワンダで大規模虐殺が行われたということを全く知らなかった。そして、今、知人に薦められて本事件を扱ったルポ作品『ジェノサイドの丘』を読んでいる。あまりに凄惨で飲み込むことのできない事実もさることながら、人間の行為から見えるその存在の脆さに、まだ1/4程度しか読めていないにも関わらずショックを受けている。しかし、特集を聞かなければ私は一生このことを知らないでいたかもしれなかった。なんと恐ろしいことか。
当たり前だが、世界には私の知らないことはごまんとある。しかし、その「知らないこと」は、人間ひとりの知の限界を考慮した上で、知るべきか否かで切り捨てられたものごとではない。たまたま通り過ぎてしまった/出会い損ねてしまったものごとなのだ。久しぶりに、知らないことへの恐怖を覚えた。思い出せてよかった。まだ、取り返せる。