• Journal,  TANKA / HAIKU

    スプーン修行

    健康的な生活と言えば聞こえはいいが、怠惰な生活と果たして何が違うのだろう。母親としての役割を全うするためと夜10時に寝ている人が自己研鑽の時間がないと主張しても言い訳にしか聞こえない。我が子は起きている間中チャレンジを繰り返し興奮した頭でなかなか寝付けないほどなのだから。


    松谷みよこの絵本「おさじさん」は、スプーンのおさじさんが、お粥を食べようとするうさぎぼうやを手伝う話だ。おさじさんの申し出も意に介さず、うさぎぼうやは自分で食べられるもんとあつあつのお粥のお椀に鼻を突っ込む。あまりの熱さに泣いてしまう姿に呆れもせず、おさじさんはスプーンとしての役割を全うし、うさぎぼうやは無事美味しくおかゆを食べられる。離乳食が進んでスプーンに興味を持ち始めた息子に読んで聞かせていたが、現実はそう簡単にはいかない。


    しっかり匙を握っても、お椀との距離感がつかめなければ空振りばかり。なんとか届いたところで手首に力が入ってなくては、匙はおかゆに刺さらない。ようやくおかゆに辿り着いても力が持続しなければあまりの粘度に負けてしまう。掬えたところでお口を見つけられなければ頬っぺをべたべたにするだけで、おさじさん、気はいいのだけどシャイだから、握られたまま硬直してしまいちっとも頼りにならない。手に力が入らなくなるまで根気強くチャレンジしなきゃいけないのだ。息子は文字通り匙を投げるまで毎食スプーンで食べる練習をしている。先日、初めて成功したとき、口いっぱいのおかゆを覗かせながら目を細めて満足げに笑っていた。

    破魔弓や諦めきれぬわが身かな


    寝正月志も形無しや

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    初めての愛

    小さな手に頬を叩かれ目を覚ます。障子の外に太陽の気配はまだない。念のため時計を確認すると目覚ましが鳴る30分前だった。「もう少し一緒に寝ようよ」と寝たまま両手を広げると、生後10か月の息子は高く上がった方の手にタッチした。

    脳内はハートマークで埋め尽くされてしまった。

    3か月ほど前、息子が匍匐前進のようにして移動する手段を習得し、彼のスペースとして設けた1メートル四方のマットを出て探検に出るようになった頃、ウォーターサーバーの替えボトルが入った大きい段ボールでリビングとキッチンの境に壁を築いた。我々が台所に引っ込むと、彼は前腕で体を引っ張り、平泳ぎの要領で足の親指の付け根で床を蹴り、ばったんばったんと跳ねるように後を追ってくる。しかし、目の前に立ちはだかる壁を前になす術がないことが分かると、きょろきょろとあたりを見渡したのち、近くにあるおもちゃで気を紛らわすこととなる。
    最近はつかまり立ちができるようになり、保育園から帰ってくるなり段ボールの壁に匍匐前進で素早く駆け寄って天面に手をかけてよいしょと軽い調子で立ち上がるのが毎日のルーティンとなった。そしてまだ見ぬ壁の向こうはどんなものかと身を乗り出して暗いキッチンをのぞき込む。だが少しすると疲れてくる。立膝になってから腰を下ろすという段階的な動作ができない彼は、地面との距離が分からないままにおっかなびっくりおしりをぷるぷるさせながら尻餅をつくように座る。そのようにしてやっとのことで座ったのに数秒経つとすぐに段ボールに手をかける。腕に力が入らなくなり立てなくなるまでそれを繰り返す。疲れを知らない、真剣な面持ちで、何度も何度も繰り返す。壁の向こうを見てみたい、壁の向こうへ行ってみたい、その一心なのだろう。

    そんな様々に可愛らしい姿を眺めていると、自分のことなぞ忘れてしまう。何よりも自分が大切であった私だから、一般に子供が生まれれば変わると言われたとて、そんなことはなかろうと高をくくっていた。それなのに、私より大切なものが現れてしまった。初めての経験に戸惑いが隠せない。どうしたらこの湧き上がる温かい感情をとどめておけるのか。段ボールの壁ではやわすぎる。

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    背中を聞く

     生後半年を過ぎた息子は、初めての場所に行くときょろきょろしてばかりいる。先日家族で初めてファミレスに行ったときもそうだった。そわそわしてじっと座っていられない。大きなテーブルも、お隣のお姉さんも、高い天井も気になる。そんな調子だから、散歩に出るときも私と対面するのではなく、前向きでベビーカーに乗せる。母の顔より景色を見た方がよっぽど楽しいだろうと考えてのことだ。生後4か月ごろに試したときは母の顔が見えないのが不安なのか泣いてしまったが、今はもう悠然としている。しかしこうなってくると、母の方が不安になってくる。普段は表情や仕草で快不快を読み取っている手前、暑くないだろうか、散歩は楽しいのだろうか、眠くなっていないだろうか気になって仕方がない。
     絵本を読んでいるときもそうだ。膝の上に座らせ、文字を読んでやる。息子のペースで絵や物語を楽しめるように文字を読んだ後の数秒はページをそのままにする。すると息子が私の腕を叩く。その仕草が読み終えた合図なのだろうと次のページに進む。それを繰り返し、おしまい、と本を閉じて脇に置くが、彼は本を追うように首を回す。もう一回読んでほしいのかしらと同じ本を再び開く。そして読み終えた後、「面白かった?」と抱え上げて聞いてみるも、彼は眉一つ動かさない。おとなしく背中を預けているのだから嫌いではないのだろうと信じて毎日絵本を読んでいる。
     お座りができるようになったころ、試しに対面で絵本を読んだことがある。和歌山静子さんの『ひまわり』は上下開きになっており、「どんどこ どんどこ」と力強い擬音と共にひまわりの成長を追っていくものだ。私が気に入って何度も読んでいるのだが、このとき息子は頭を上下させながら見開きの絵を一生懸命見ていた。普段はゆるく開いているか、とんがらせている口元もこのときは半月のようにぱっと明るく開いており、楽しそうではないかと安堵した。

     小さな背中は重い頭を何とか支えられるようになったくらいで、頼もしいなんて言葉は縁遠い。つい支えて、逐一大丈夫?と声をかけずにはいられない。だけど母は、耳を澄ませてその欲するところを聞いていたい。聞き間違えたときはどんな誹りも受け入れる所存だ。

  • Journal

    冬田のかかし

    冬晴れの日、白く乾燥した田んぼの中に老婆がいた。じっと立って何を見ているのだろうと彼女の視線を追うが、遠くの工場から煙が上るばかりで何もない。太陽は暖かいが、あずき色の服が風にそよぐのは寒そうであった。そして気づく、袖に腕が通っていないことに。ズボンの裾の先に足がないことに。

    彼女は毎日田んぼの中で立ち続け、臨月を迎える私は毎日その田んぼの傍を散歩した。彼女は常に背筋を伸ばし、私は腹が張るのを感じ時折腰を折った。

    一面田んぼの散歩道は、日差しを遮るものがないため太陽さえ出ていれば冬でも暖かい。しかしその日は寒波を前に太陽は厚い雲に覆われた。いつもの格好で散歩に出たものの、耐えきれずフードを被り手をコートの袖の中に隠す。畔は枯草に覆われ、古いアスファルトは余計白く見えるように思えた。工場への出勤だろうか、後方から車が過ぎていった。音につられてその白い車の方へ目線を送りながら、彼女の姿をまだ見ていないことに気づく。自分がどのあたりにいるのか判然としないまま遠くの田んぼや近くの田んぼに視界を移しつつ歩き、色あせて灰色になった速度制限の道路標識を過ぎたところで彼女を見つける。相変わらず背筋を伸ばしてあずき色の服をたなびかせていた。

    茫漠とした景色の中を歩いていると、やり残したことばかりが気になった。去年の3月にハーフマラソンの大会に出る予定だったが感染症の影響で中止となった。フルマラソンへの挑戦も自然に立ち消えた。夏には友人と宝塚へ歌劇を見に行く予定だった。しかし体調が思わしくなく見送りとなった。感染症の影響でオンライン開催となっていた母校のクリスマスミサが3年ぶりに臨場開催となったが、いざ時間になると仕事の疲労感で参列できなかった。長期休暇に入るに際して業務マニュアルに追加して自分がやりたかったことのメモを渡すつもりだった。しかし頭も体力も最低限のことを遂行することに必死で手が回らなかった。こうすればよかった、ああすればよかった、次にできるのはいつだろう……。

    田植えが済むとこの辺りは鮮やかだ。夏は青い稲が光を弾き、秋には金色の稲穂が風を送る。しかし老婆はあずき色の服を着て同じ場所に立ち続ける。過ぎた季節を思い出すこともなく、また、迎える季節を想像することもなく、ただまっすぐ背筋を伸ばして居るだろう。

  • Poetic Diary,  TANKA / HAIKU

    kirakira maternity life

    ふたつ枕を並べた甲斐が無いほどに近く頭を、身を寄せ合う。あなたは私の腹に左手を当て、私はその手に私の右手を重ねる。私の手ではない手がやってきたことに気づいて、きみは私の腹を蹴る。内側から、懸命に、一発。そしてもう一発と繰り返す。元気だねえとあなたは笑い、もう1回と私は私の腹をつつく。するとあなたが手を当てていたところが急に固くなり、なだらかな丘に起伏ができる。おしりかな、あたまかなと私たちは笑う。

      短日を食い育つ子を宿したり

    電気を消し、それぞれが眠りにつく。暖かな布団にくるまれて、静かに、眠る。

  • Journal

    りんごジュース

    淡々と業務を終え、自室の隣の寝室で電気を点けないまま横になる。定時で上がればそれなりに夜の時間は長く、横になったままその日を終えるのは難しい。手持ち無沙汰ならいつもどおり散歩にでも出ればいいのだが、窓から見た黒い空と向かいの家の明かりで今日は十分だった。お風呂も夕飯もまだなのは知っている。でも何をすればいいか分からなかった。寝返りを打ち、メールやらSNSやらのコミュニケーションアプリを何度も更新する。人々は仕事中のようで仕方なしにカメラロールを開く。古い日付へ画面を繰っていくと、母と3歳の姪が笑う写真に目が留まった。

    その日は兄夫婦に用事があり、実家に姪を預けていたところにちょうど私が帰省したのだった。3月下旬でまだ暖かくはなかったが、天気が良かったので母と姪と私の3人でデパートの屋上広場に出かけた。コマのように回る椅子や動物を模したスプリングの遊具があり、まだアスレチックで遊べない子どもを連れていくにはちょうどいい。しかし、エレベーターを降りた姪はホールから動こうとしない。何度か遊びに来て慣れた場所のはずだったが、交通事故の現場に居合わせたかのように固く私たちの手を握ったまま広場を見つめている。寒いのだろうかと思い、両手で抱えて遊ぶ大きなソフトブロックが転がる屋内のプレイエリアに手を引くも、俯いたまま遊ぼうとしない。数か月に1度しか会わない私と2人きりならいざ知らず、毎晩テレビ電話をしているばあばにも何も言わないとは相当気乗りしないのだろう。
    仕方なしに姪を挟んでベンチに座り母と2人で話していると、姪がアンパンマンのあしらわれた自動販売機を見つめていることに気づく。色とりどりの小さな紙パックのジュースやお茶が陳列されており、1つ70円という。しかし、兄夫婦は子どもの食事には細心の注意を払っており、チョコや飴は食べさせないようにしているほどだから安易にジュースを買い与えることはできない。パパとママに聞かないとだなあと母と顔を見合わせていると、「さびしいときはママがジュースくれるの」とデパートに来てから初めて口を開く。そうなんだね、じゃあ一緒にジュース飲もうねと母が青いパッケージのリンゴジュースを買った。屋外の日当たりのいいベンチに移動してジュースを飲み終えた姪は元気になり、その後は3人で鬼ごっこをして遊んだのだった。

    そのとき連続して撮った数枚の写真を数度見返して携帯を閉じ、布団をかぶりなおす。小さな手でぎこちなくピースを作る姪の顔を思い浮かべ、明日スーパーに行ってジュースを買おうと決める。