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    ある日のアフターファイブ

     職場で進めているプロジェクトは初めてのことだらけで、手探りで手当たり次第に取り組んでいるものだから、毎日気づく頃にはすっかり夜は更けており、夜ご飯を食べる時間と睡眠時間どちらが大事かと悩んでばかりだ。しかしその日は、業務を人に投げつけるだけ投げつけて私の手元はすっからかんになったので定時で上がることにした。急にできた時間をどうしてやろうかウキウキ考え、そういえばと丸の内の丸善へ行くことに決めた。新型コロナ流行以降、本が欲しくなれば果てるともなく連なる読みたい本リストの中からオンラインで注文するばかりだったから、当てもなく面白そうなものはないかと未知の本棚を眺めまわすのは非常に楽しかった。2時間かけて購入した4冊の本を背負いほくほくした気持ちで書店を出た。
     駅の改札を通ってから今更ながらと改めて時間を確認する。久しぶりの定時退社、久しぶりの本屋さん、この静かな高揚感をもう少し引き延ばしてもいいではないか。

     しばらく来ないうちに東京駅構内の開発はずいぶんと進んでおり、腰を落ち着けられる場所はないかと通路から店内をのぞき込みつつ歩き回る。なかなかいい場所が見つけられずフラストレーションが高まり、すっかりうんざりする前に帰るべきではないかと思い始めた頃、「ピエール・エルメ」と世界的に有名なパティシエの名前がカタカナで表記されたカフェショップを見つける。従来の華やかなイメージとは異なり、白を基調としたシンプルな内装が気分にマッチした。
     夕飯がまだだったのでフードメニューにも惹かれたが、ここはやはりスイーツだろうとショーケースを覗く。フルーツを混ぜ込んだマフィンやタルトは美味しいだけではなくお腹もいっぱいになって一石二鳥だ。しかしこのパティスリーならばマカロンを食べるのが定石ではないか。とはいえ、店舗限定商品も捨てがたい。数種類しかない商品を前にどうしたものかとぐるぐる悩んでしまう。そして結局、無造作に形成されたロールパンほどの大きさの白いメレンゲにクッキー状の赤いメレンゲが埋め込まれたお菓子を選ぶ。おいしそう、というよりもどうやって食べるのだろうという好奇心が働いた。焼き締められたメレンゲを一口大に割ろうとすればボロボロになるだろうし、同様の理由でかぶりつくわけにもいかない。どうやって頂くのが正解なのだろうか。
     注文を済ませると、お好きなところへどうぞとイートインスペースに案内される。ひとりで4人掛けテーブルを占有するのは気が引けたので、店外に面したカウンターのスツールに腰掛けた。
     するとすぐ、注文したメレンゲ菓子が運ばれてくる。添えられたナイフとフォークに気づき一瞬怯んだ。頭上にクエスチョンマークをたくさん浮かべながらお店が推奨しているであろうとおりにフォークでお菓子を抑えナイフを立てる。ショーケース前で想像したとおりそれはガリっと砕けた。あまりにも想像通りで笑ってしまう。目の前を人が通るのもお構いなしにひとりクスクスと笑ってしまう。エルメ~と突っ込みたくなってしまうほどに可笑しい。
     しかし、そんなにもお茶目なお菓子なのに、大きく割れたかけらをひとたび口に放ればその甘さにうっとりする。さらにコーヒーをひとくち含めば甘美さが深まる。先ほど買ってきたエッセイの1編は、読み終えてはお菓子をまた一口と繰り返すのにちょうどいい長さで、メレンゲが粉々になるまでそれを繰り返した。
     そしてこれも予想どおりで、最後はお皿に残った粉々のメレンゲと対峙することになる。逡巡するが早いか手早く四角いお皿の角にメレンゲを寄せ集める。さっと周りを見渡し、誰も見ていないことを確認してからフォークでそれをすくい完食した。食べきったぞとほくそ笑むも、粉々のメレンゲが残るはずが綺麗に平らげられたお皿に改めて直面すると急に気恥ずかしくなってくる。この席で散々思うがままに過ごしたのに、今更居たたまれなくなるとは自分でも理解に苦しむが、その日はそういうことのようで、そそくさとマスクをし、必要以上に颯爽と店を出る。何のためのカッコつけだか分からないが、仕事後にカフェで一息ついたキャリアウーマンを気取ってそのままホームへ歩いていく。

    電車に乗り、席に着いたとたん気が緩む。何から何まで楽しかったなあとマスクの下の口元まで緩み切る。

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    呪いを解くためのレッスン#2

    自分は何が好きなのかとか、何になりたいのかとか、もう何も分からなくなってしまった。
    もう、何が呪いなのかさえ分からない。私は完全に呪われ、自分が呪われていることさえ分からなくなった。

    日毎に草木が芽吹くのを感じるのが好きだった。
    葉陰が濃くなる一方で、きらきらと差し込む光を浴びれば身体のうちから力が湧き出るようだった。
    手をすかし、スカートを広げ、一歩歩いては振り返り、一瞬一瞬表情を変えるきらめきを見逃さないようにとしていた。
    緑から赤や黄色へそして茶へと葉の色が変わるのを死にゆくときを眺めているようで苦しかった。
    はだかの枝は寂しいが、これからまた新たな生命が生まれるのかとわくわくした。
    私はこの移ろいのために永遠に生きていたかった。

    朝起きてカーテンを開け、雲一つない空を見れば外へ飛び出さずにはいられなかった。
    雨が降れば本を広げ、雨音とともに何かが体に染み入るのを感じた。
    そのようにして外界から刺激を受ける度、抽象的な事物への想念が沸き起こった。
    思いを巡らせ、歓喜や怒り、憎悪、あらゆる感情にたどり着いた。
    理不尽を相手取り、見えない敵と戦った。
    心が平穏なときなどなく、常に動き形を変えるそれを感じることが悦びだった。

    そんな時代もあった。

    朝起きて仕事に行き、帰って夕食の支度をして夫の帰りを待つ。ふたりで笑いながら食事をし、食べ終えたころにはもう寝る時間で、毎日をそのように繰り返す。
    何はなくともそれだけで日々は流れていく。私の向かいに座るその人は満面の笑みを浮かべている。それを見れば私のこころも満たされ、世の中の些事なんてどうでもよくなってしまう。

    私は誰だったかな、かつてはそれを知っていた。

  • Poetic Diary

    Grand Pas De Chat

    他よりも早く終電は過ぎ、清掃も終わり、もう誰もいないホームに蛍光灯の光がぼんやり浮かぶ。

    いくつか線路を越えた先で空っぽのそのホームを眺めていた人の足が地面から離れた。リュックから取り出したものの気力が湧かず結局読めないでいた本がばさりと落ちる。

    その人は浮いていることに気づいて慌てて地面に戻る。右に左に急いであたりを伺う。同じ電車を待つ人たちは手元を見るのに熱心だ。

    誰にも見られていなかったことに安堵し本を取り上げ今度は自分の足元をじっと見つめる。それから右足のつま先でトントンと軽く地面を叩く。今度は左足のつま先を立て足首を回す。ふむ、と小さく頷いたかと思うとリュックを背負った肩が大きく上がり、それにつられて指先が弧を描く。そして飛んだ。屋根から屋根へ移るように飛び、踊った。コンクリートを蹴る音が微かに響く。右から左へ、左から右へ、ステップやポーズを交え、整列位置に立つ人々の背中をかすめて踊った。誰にも気づかれないように大きく手と脚を広げて踊った。

    夜10時、新宿駅。その人を送り届ける電車はまだ来ない。

  • Journal

    The seasons of corona

    今年の冬はあまり冷え込まなかった。例年はあまりの寒さに一刻も早い春の訪れを望むのに、コート一枚纏えば十分寒さを凌げてしまうものだから、来たる春に思いを致すこともなかった。

    だからだろうか、今年は春が来なかった。

    草木がもぞもぞと動き出し、知らぬ間に芽が吹つぼみが膨らんでいく。あらゆるものが目を覚まし日ごとに大きくなっていく、わくわくするような季節、それが春――そうだったと思う。もはや、春がどのようなものだったかさえ思い出せない、何も、何も思い出せない。

    春と呼ばれる最近の月日を振り返れば、私は常にLEDの光に包まれていた。安定したその光の中で健やかに暮らしていた。昼は部屋で仕事をし、夜は自分で作ったものを食べる。危険も、不安もない。要請のままに平穏を守った。
    しかし、夏と呼ばれるこれからの月日についてはそうはいかないらしく、慎重に適切な各人の判断で以て「日常生活」を営むよう求められている。自己責任というやつだ、疲れてしまう。

    だからもう、私はいいです、窓を閉め切り誰かの作った光の中で静かにさせておいてください、もう、草いきれも草陰の光もいらないから、茹だるような暑さのなか太陽に焼かれながら何かに引っ張られるように歩き続ける喜びなんて、後生望まないから。

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    きんぴらごぼう

    きんぴらごぼうを作ろうと泥のついたごぼうをこすり洗いしていたら、知らぬ間に手に力が入っていたようでポキリと折れてしまった。あんまり簡単に折れてしまうものだから反省のしようもなく、1本洗い終えないうちにもう一度折ってしまった。折れて何か困るというわけでもないのだが、数十円を惜しんだために自分の生来の不器用さに直面させられたようで逆に損した気分になった。
    しかし、包丁を握り、ささがきを始めれば削るほどに立ち上る土のような香りにうっとりして気分も変わる。水を張ったボウル一面を覆うささがきごぼうは宛ら白い花びらで、色を差せばよりきれいだろうとにんじんを手にとる。
    色が加わる度、香りが変わる度、その変化の喜びに手を止め、先の工程へ進もうかこれで完成としてしまおうか迷い、前者を選びとることの繰り返しを経て漸くきんぴらごぼうは完成した。
    青い方形のつやつやとした豆皿に盛って食卓に並べる。鷹の爪が利いたピリ辛のそれは、見た目にも舌にもいいアクセントとなった。


    ごぼうを丸々一本使うとそれなりの分量のきんぴらごぼうが出来上がる。その日の夕飯に出さなかった分を保存容器に移しながら、食べきるまで何日かかるだろうと考える。一汁三菜のうちの一品は今日もこれかと、うんざりせずとも記憶にある味に存在が褪せ、お気に入りの青い器がマンネリ化することを思うとぞっとしない。
    どうしたものかとインターネットで調べてみると、私と同じように、たくさん作ったはいいものの……と持て余している人は多いようで、マヨネーズで和えて味を変えてみたり肉で巻いてまったく違う料理にしたりとひざを打つようなアイデアが次々と出てくる。しかし、それら「リメイク料理」を素直に受け入れられない。ある料理について、そのようにして食べることが一番美味しいようにと作った工程を無視し、出来上がったものだけに注視した、文字通り美味しいとこどりの料理をどこか卑しく思ってしまうのだ。
    しかし、飽きられ喜ばれず、ただ消化されてしまうくらいならと、くだらないプライドを振り切ってリメイク料理を実践してみる。使い回しであることが気になりにくそうな炊き込みご飯にし、山椒の強い七味を振って食べてみれば存外に美味しい。夫も喜んでくれ、これでいいのかと拍子抜けする。

    そのとき、実はこっそりひとり分を取り分けていた。冷やかけうどんに盛り付けたらどうかと思いついてしまったのだ。何のひねりもない簡単なアイデアではあるが、ひとり在宅勤務のお昼時に食べてみれば想像したとおりで嬉しくなってしまう。美味しいものを独り占めすることに後ろめたさも感じたが、中途半端に残った夕食のおかずを翌日もさもさと食べるときを思い出し、料理担当の役得としてそのくらい許されようと自分を慰めてみる。

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    パン生活事始め

    結婚祝いにと、姉夫婦からすてきなトースターを頂いた。外はカリッと中はもちっとしたトーストを焼き上げる優秀な機能を備えている上に、オフホワイトの丸みのある形状が抜群にかわいい。
    早速近所の有名なパン屋さんで食パンを買って焼いてみる。スイッチを入れること2分弱。トーストとはこんなに美味しいものであったかと感激する。

    翌朝からの朝食をトーストに切り替えるべく買出しに出る。

    高校生の頃まで毎日の朝食はトーストだった。母親がスーパーで買ってくる8枚切の食パンにマーガリンを塗り、焼くというよりもマーガリンが溶ける程度に温めて食べていた。小学生の頃から、母親がお弁当の準備をする横で飽くことなく毎日そのようにして朝食を済ませていた。
    しかし、大学生になって以降は、帰りが遅くなり夕飯を翌朝に食べるようになったこため、日常的に食パンを食べることはなくなった。それに伴い母親もルーティンとしてパンを買うことはなくなり、ときたま食べたくなればそれは百貨店で扱うホテルブレッドだったり、美味しいと評判のパン屋さんへわざわざ遠出してみたりと、そのようにしてパンを食べることはちょっとした贅沢となっていた。

    スーパーのパン売り場に立ち、ずらりと並んだ食パンを見渡す。これまではパンを買うのに贅沢も奮発も厭わなかったけれど、毎日のこととなるとそうはいかないように思えたのだ。
    その一方で毎日のことだからこそ安全で美味しいものを選ぶべきではないのかとも思えた。さらに、最近流行の1斤が1,000円もする高級食パンならいざ知らず、町のパン屋さんの数百円のものを諦めなくてはいけないのかと聞かれると難しい。しかし、消費期限が短いのが難点ではある。2-3日で半斤食べきれる自信がまったくない。そうなるとやはり保存料やらなにやらと添加物がたっぷり使用された工場製品にするほかないだろう……ぐるぐる悩み始めるとキリがなく、実家ではそうだったのだからと、目の前の棚に積んである中から消費期限の長いものを確認してかごに入れる。
    毎日バタートーストだとなあ、という夫の言葉を胸に、薄切りハムを目指す。
    実は先週初めて自分でウィンナーを買った。ウィンナーがあると自炊をする上で何かと便利なのは分かっていたが、高校の家庭科の授業で加工肉の油分や成分の解説を受けたときの衝撃以来、大量生産の加工肉に強い抵抗感がある。とはいえ、安全なものをと思うと値段のために手が出ない。それでも先週はどうしてもナポリタンが食べたくなってしまい、とうとうスーパーでウィンナーを買うことにしたのだ。だからもうここで迷うことはないのだ。
    さて、と明後日が消費期限のものと1ヵ月後が賞味期限の2種類のハムを見比べる。明後日が消費期限のものは比較的少量ではあるが食パンと同様にやはり使いきれる自信はない。ウィンナーの初購入を果たした経験で以って賞味期限の長いものを購入することに決めたが、手を伸ばすとき、ちらと成分表示を見た。列挙される保存料は予想通りだが、「コチニール」という表示に思考が逆回転する。こちらでも高校の授業で見たコチニールカイガラムシを着色料として加工する動画が記憶に蘇り、さすがにだめだと、足の速いほうを手にとる。一応と、成分表示を確認する。「コチニール、くちなし」
    もう八方塞だと、気分を変えるために一旦売り場を離れる。
    乳製品コーナーではプラスチック容器に入った使い勝手のよいバターは軒並み売り切れていて、アルミに包まれているものしか残っていなかった。その一方で、マーガリンはたくさんあった。また悩んでしまう。マーガリンも美味しいのは知っている。溶けやすく使い勝手がいいのも知っている。しかし、マーガリンに多く含まれるトランス脂肪酸の身体への影響について一時期話題になっていたではないか。そのことを知っていてわざわざマーガリンを選ぶのは気が引けた。善意ならいざ知らず、悪意の上でそのようなものを家庭で出すような所業をしていいはずがない。しかし、安価さに惹かれてしまう。バターを切り分ける手間が省けるのも嬉しい。
    買い物はすばやく済ませるようにと叫ばれる現況下にも関わらずたっぷり十分間悩み、「トランス脂肪酸の低減に取り組んでいます」と表示されたマーガリンをかごに入れる。やむを得ない、明日からの朝食が懸かっているのだ。
    レジへ向かおうとするところでハムを選んでいないことに気付き、売り場に引き返す。賞味期限の長いハムを選ぶ。

    電子決済での支払いはなんと買い物をスムーズにしていることだろう。
    いまだにこれでよかったのだろうかと悩んでいるうちにレシートが発行される。

    実家のトースターは30年選手だ。我が家のトースターも先は長い。まだまだたっぷり悩める。
    まず手初めにと、食の安全についての本をネット注文した。今回買ったパンを食べきるまでには届くだろう。読み終えるのはハムを食べ終えるころだろうか。

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    食べるということ #darkness

    食べることが好き。
    食べ物の彩り、かおり、手やカトラリーで触れたときの感触、食感、その全ての味わいを楽しむにはほかのことを考える余裕はない。思い切り没入できることがあることはいいことだ。

    ときどき、全てが嫌になる。そういう時間は誰にでもある。だからもちろん私にもある。


    眠って忘れてしまえばいい。でも、うまく眠れない。
    ぼーっとテレビでも見ていればいい。でも、流し見の苦手な私はまともに流れ込んでくる情報の量に耐えられない。
    気分転換に運動する気力も、部屋の掃除をする気力も、何も、何もない。チョコレートを溶かしたような粘度のdepressionに絡め取られ、ただただその強い芳香の中に沈んでいく。何もせず、時間が過ぎるに任せようとするのを誰かが責める。一方で、うずくまっている隙を狙って日々のあらゆるタスクが頭を駆け巡る。ひゅんひゅんと音を立て、極彩の残像を残すそれらを退治するために、何かせねばと気が逸る――何も出来ないくせに――もう、耐えられない。

    甘いものが好き。
    アイス、ケーキ、ドーナツにクッキー、和菓子だって何だって好き。
    シュークリームを食べたいと思う。カスタードの舌触りとやさしい甘さが身に浸みる。
    チョコクッキーを食べたいと思う。サクサクとした食感に夢中になる。
    ドーナツを食べたいと思う。たっぷりとしたボリューム感に安心する。
    どら焼きを食べたいと思う。ぎゅっと詰まったあんこを挟むじわっと甘い皮が贅沢だ。
    アイスミルクを食べたいと思う。待ちきれない私はパッケージを破り、アイス片手に家へ向かう。

    食べることが好き。
    食べ物の彩り、かおり、手やカトラリーで触れたときの感触、食感、その全ての味わいを楽しむにはほかのことを考える余裕はない。
    お菓子を食べている私は忙しい。忙しすぎて嫌なことはつい全部忘れてしまう。満たされゆく胃だって無重力空間に飛ばしてしまう。

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    over coffee

    朝、カウンターを隔て、わたしはキッチンで、夫はリビングで、コーヒーを飲む。ラジオから流れる朝のニュースにあれやこれやと言いながら。はやり病へのぼんやりとした不安を抱えながら。
    7時30分になり、それぞれの部屋に解散する。

    このごろわたしたちは、感染症感染拡大防止対応としてそれぞれの会社から在宅勤務を命じられ、ひとつ屋根の下で仕事をしている。就業時間が異なるために昼食は別に摂るので、朝、各自の部屋に解散したら終業するまで顔を合わせることはない。お互い淡々と自身の業務に取り組む。6:30にそれぞれの会社に向かおうと、手を挙げ解散したきり夜まで顔を合わせることのない、これまでのふたりの距離感と何ら変わりはない。

    その日はどういう風の吹き回しだったのだろう、夕方ふたりでジョギングに行くことになった。仕事の手を止め、着替えて家を出る。わたしのペースで、ふたり並んで家の近くの川沿いを走る。日がのびて、夕方5時を回ってもまだ空は明るい。切れ切れの息の中でも、夕日に照らされた桜に感嘆の声を上げる。

    帰宅してすぐ夫は風呂場に向かう。ほとんど汗をかいていないわたしは夕食の準備を始める。梅干しをつぶし、大葉と一緒に鶏の胸肉で挟んで焼く。ブロッコリーを添え、大豆の煮物とお味噌汁と食卓に並べれば一汁三菜の食事の出来上がりだ。シャワーを浴び、さっぱりした夫と向かい合って食べる。片付けは彼に任せ、シャワーを浴びる。キッチンに戻ると、もう彼は自室に引き取っており、仕事を再開しているようだった。わたしも白湯を飲み、仕事に戻る。

    夜の10時、仕事は山積みだが、いつまでも仕事が続けられる環境だからといって就業規則を無視していいわけもなく、その日はPCを閉じた。夕方走ったおかげで心地よい疲労感が身体を包み、少し早いが寝室に向かう。夫も仕事を切り上げてきて、ふたりベッドに横になり一日を振り返る。

    朝起きて、ゆっくりコーヒーを飲んでから日々の生活のために仕事をする。気分転換に身体を動かし、ゆっくりと食事をする。自分の時間を自分の好きなように使え、なんと充実した一日であったことか。

    これが生活だよねえと話す。

    毎日、会社に縛られてへとへとになるまで仕事して、帰ってきたら寝るだけの生活なんておかしいよねえと抱きしめあう。

    寝物語にと、将来の夢の話をしてみせる。大学生のころに思い描き、それから変わることのない、イギリスの湖水地方でコーヒースタンドを営むという夢。
    きっとスタンドには近所の人しか来ないだろう。コーヒーを買いに来たのかおしゃべりをしに来たのか分からないお客さんを相手にするお店に座って、本を読み、文章を書きながら、ロマン主義が生まれた彼の地の、物憂くも美しい景色の中でその日暮らしの生活を送る。
    夫は眠たげな声で、いいねと相槌を打つ。

    コーヒースタンドで生計を立てる生活への思いは年を重ねるごとに強くなってきている。
    そこでは今のように、余裕があり、贅沢なものを食べたり旅行に行ったりはできないだろう。むしろ、明日への不安を抱きながら、相当工夫して切り詰めて暮らしていかなくてはならないだろう。それでも、見えない力に引っ張られるようにしてあくせく働き、これまでの人生で私が大切にし育んできたものを忘れ、知らぬ間に自分を殺して社会に順応するよりはずっといいように思える。

    寝しなに明日のジョギングの誘いを受けたが、筋肉痛がつらいだろうから私は散歩にしておくと返した。

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    壁に語りかけるということ

    最近仕事が大変なの。業務内容が多岐に亘っていて極めつけは月初に迎えた庶務さんへの引継ぎ。今まで、学校でもバイトでもいつも自分が一番下で、何でも自分でやらなきゃいけなかったから、仕事を切り分けて人に指示するのは初めてだし、庶務さんのワークスキルもいまいち分からないし困っちゃう。しかも、彼女の座席はまだ前の職場にあるからコミュニケーションが取りづらいのも不便でね。あと、これは嬉しい話で、彼女はこれまで10年弱同じ職場で庶務業務をしてきたけど、異動を機にキャリアアップを目指したいんだって!だからただ作業をお願いするんじゃなくて、意味内容を説明しなきゃいけないと思うの。まあ、それがまた大変なんだけど……。ただでさえ繁忙期なのに引継ぎもあって、なのに残業規制で完全にキャパオーバー。でもこれを乗り切ったらまたひとつ成長できると思うんだ……なんて話、一体誰が興味ある?

    他者の意見を聞きたいわけでもなく、私が私を慰めて、自らを肯定したいだけの一方的な語りを人様の時間を奪ってするとは、なんと恐ろしいことだろう。他人とすべきは建設的な会話であって、自分の持て余した時間を相手の時間に侵食させてはいけないし、キャッチボールができるよう常に道筋をつけながら受け答えをしなくてはならない。

    私はそう考えている。

    しかし、優しい人の前になると喉までせり上がってきている言葉を飲み込むことはひどく困難で、ひとりよがりの語りは荒川の流れのようにとめどない。

    そういうときは、ひととおり気が済むまで話終えた後に相手から気を遣ったように好意的な言葉をもらったときになってもまだ自分の誤りに気がつかない。むしろ好意的な言葉が的確でないと気を害してしまうくらいだ。私が褒めてほしいのは、一緒に憤ってほしいのはその点ではないと、語りなおす。
    耳を傾ける相手の痛ましげな表情でようやく満足する。
    そしてひとりになったとき、はたと気付く。
    彼は、彼女は、私の感情のゴミ箱ではないのだと。
    そして凄まじい自己嫌悪に陥る。
    その繰り返し。成長はない。
    合理化のために裡でぐるぐる練り上げた言葉を吐き出さなくては気が済まないなら、せめて、人に向けるのはやめるべきだろう。ただ、空に向かって発声することに慣れると、どこでもかしこでも語り始めるようになる未来が予想されうるから、それはまずい。であれば特定のモノに話しかけてみるのは良いかもしれない、そう、壁とか。

    花はくだらない話を聞かされたら萎れてしまう気がするが、壁はまさかたわむこともないだろう。悪くない、そうしよう。

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    anti-stagnation

    雨の日は気分が落ち込む。落ち込んだ気分を無理に立て直そうとせず、引きずり引きずられるのも偶にはいいだろう。
    今日は休日なのだから。

    ベッドから起き抜け、顔を洗い、ひとりリビングのソファに座る。
    とり込んだまま畳んでいない洗濯物、寝る前に白湯を飲んでそのままのマグカップ、未読通知が溜まったSNS。全て見ないふりをして今日は何をしようと考える。

    今年の冬はあまり気温が下がらず、まだ3月も半ばに差しかかったばかりなのに、桜のつぼみは色づき始め、草木がもぞもぞと動き始めた。この週末は里山か自然公園へかに行こうと楽しみにしていたが、今日は急に冷え込み、雨まで降るものだから、出かける気力はすっかり萎えてしまっていた。

    とりあえず朝ごはんを食べようかと立ち上がる。スリッパを履きなおしたところで、昨夜酔った勢いで食べ過ぎ、まだ重い胃に肩を掴まれソファに再び座らされる。何をしよう。

    やりたいことはたくさんある。
    本が読みたい――しかし、今読みさしている本は面白く、靄がかった頭で読むには勿体無い……
    そういえば、仕事中に分からないことがあったのだ――しかし、調べようにも資料の一部を会社においてきてしまっていた……
    雨の休日は手の込んだ料理をするにうってつけだ――しかし、お腹が空いていない……
    そうだ、見たい映画がようやく始まったのだった――しかし、上映時間まであと2時間ある。中途半端だ……
    肩こりがひどいからサウナに行きたい――しかし、生理がきてしまった……
    エトセトラ、エトセトラ……

    やりたいことを挙げ、ひとつずつやれない理由でもって打ち消し、いかにも怠惰な人間らしい気力のなさを誤魔化しながらふらふらと寝室へ戻る。

    目覚めたときに遮光カーテンを開けたおかげで、窓の外は雨ではあるが室内はほの明るい。布団に足を入れ、座ったまま未読のメッセージをひとつひとつ確認する。もはや陰鬱ですらない表情のない顔で、近い未来の楽しい予定の話題に可愛らしい絵文字を付す。

    横になり、頭まで布団を被る。
    部屋着のスカートが皺になっても構わない。

    目を覚まし、おもむろに携帯に手を伸ばし、未読のままにしていたメッセージを開き、アプリを落とす。
    とつおいつ……ふと頭に浮かんだその言葉を、私のためにあるようだと一瞥して再び布団を被る。

    時間を確認するついでにTwitterのpostを見返していたら、眠る前の私はひどく落ち込んでいるようだった。
    何がそんなにつらかったのだろう。
    携帯の画面を落とし、目を瞑る。

    そろそろ夕飯のことを考えるべきか――空っぽの胃はまだ重い。