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    きんぴらごぼう

    きんぴらごぼうを作ろうと泥のついたごぼうをこすり洗いしていたら、知らぬ間に手に力が入っていたようでポキリと折れてしまった。あんまり簡単に折れてしまうものだから反省のしようもなく、1本洗い終えないうちにもう一度折ってしまった。折れて何か困るというわけでもないのだが、数十円を惜しんだために自分の生来の不器用さに直面させられたようで逆に損した気分になった。
    しかし、包丁を握り、ささがきを始めれば削るほどに立ち上る土のような香りにうっとりして気分も変わる。水を張ったボウル一面を覆うささがきごぼうは宛ら白い花びらで、色を差せばよりきれいだろうとにんじんを手にとる。
    色が加わる度、香りが変わる度、その変化の喜びに手を止め、先の工程へ進もうかこれで完成としてしまおうか迷い、前者を選びとることの繰り返しを経て漸くきんぴらごぼうは完成した。
    青い方形のつやつやとした豆皿に盛って食卓に並べる。鷹の爪が利いたピリ辛のそれは、見た目にも舌にもいいアクセントとなった。


    ごぼうを丸々一本使うとそれなりの分量のきんぴらごぼうが出来上がる。その日の夕飯に出さなかった分を保存容器に移しながら、食べきるまで何日かかるだろうと考える。一汁三菜のうちの一品は今日もこれかと、うんざりせずとも記憶にある味に存在が褪せ、お気に入りの青い器がマンネリ化することを思うとぞっとしない。
    どうしたものかとインターネットで調べてみると、私と同じように、たくさん作ったはいいものの……と持て余している人は多いようで、マヨネーズで和えて味を変えてみたり肉で巻いてまったく違う料理にしたりとひざを打つようなアイデアが次々と出てくる。しかし、それら「リメイク料理」を素直に受け入れられない。ある料理について、そのようにして食べることが一番美味しいようにと作った工程を無視し、出来上がったものだけに注視した、文字通り美味しいとこどりの料理をどこか卑しく思ってしまうのだ。
    しかし、飽きられ喜ばれず、ただ消化されてしまうくらいならと、くだらないプライドを振り切ってリメイク料理を実践してみる。使い回しであることが気になりにくそうな炊き込みご飯にし、山椒の強い七味を振って食べてみれば存外に美味しい。夫も喜んでくれ、これでいいのかと拍子抜けする。

    そのとき、実はこっそりひとり分を取り分けていた。冷やかけうどんに盛り付けたらどうかと思いついてしまったのだ。何のひねりもない簡単なアイデアではあるが、ひとり在宅勤務のお昼時に食べてみれば想像したとおりで嬉しくなってしまう。美味しいものを独り占めすることに後ろめたさも感じたが、中途半端に残った夕食のおかずを翌日もさもさと食べるときを思い出し、料理担当の役得としてそのくらい許されようと自分を慰めてみる。