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壁に語りかけるということ
最近仕事が大変なの。業務内容が多岐に亘っていて極めつけは月初に迎えた庶務さんへの引継ぎ。今まで、学校でもバイトでもいつも自分が一番下で、何でも自分でやらなきゃいけなかったから、仕事を切り分けて人に指示するのは初めてだし、庶務さんのワークスキルもいまいち分からないし困っちゃう。しかも、彼女の座席はまだ前の職場にあるからコミュニケーションが取りづらいのも不便でね。あと、これは嬉しい話で、彼女はこれまで10年弱同じ職場で庶務業務をしてきたけど、異動を機にキャリアアップを目指したいんだって!だからただ作業をお願いするんじゃなくて、意味内容を説明しなきゃいけないと思うの。まあ、それがまた大変なんだけど……。ただでさえ繁忙期なのに引継ぎもあって、なのに残業規制で完全にキャパオーバー。でもこれを乗り切ったらまたひとつ成長できると思うんだ……なんて話、一体誰が興味ある?
他者の意見を聞きたいわけでもなく、私が私を慰めて、自らを肯定したいだけの一方的な語りを人様の時間を奪ってするとは、なんと恐ろしいことだろう。他人とすべきは建設的な会話であって、自分の持て余した時間を相手の時間に侵食させてはいけないし、キャッチボールができるよう常に道筋をつけながら受け答えをしなくてはならない。
私はそう考えている。
しかし、優しい人の前になると喉までせり上がってきている言葉を飲み込むことはひどく困難で、ひとりよがりの語りは荒川の流れのようにとめどない。
そういうときは、ひととおり気が済むまで話終えた後に相手から気を遣ったように好意的な言葉をもらったときになってもまだ自分の誤りに気がつかない。むしろ好意的な言葉が的確でないと気を害してしまうくらいだ。私が褒めてほしいのは、一緒に憤ってほしいのはその点ではないと、語りなおす。
耳を傾ける相手の痛ましげな表情でようやく満足する。
そしてひとりになったとき、はたと気付く。
彼は、彼女は、私の感情のゴミ箱ではないのだと。
そして凄まじい自己嫌悪に陥る。
その繰り返し。成長はない。
合理化のために裡でぐるぐる練り上げた言葉を吐き出さなくては気が済まないなら、せめて、人に向けるのはやめるべきだろう。ただ、空に向かって発声することに慣れると、どこでもかしこでも語り始めるようになる未来が予想されうるから、それはまずい。であれば特定のモノに話しかけてみるのは良いかもしれない、そう、壁とか。花はくだらない話を聞かされたら萎れてしまう気がするが、壁はまさかたわむこともないだろう。悪くない、そうしよう。
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anti-stagnation
雨の日は気分が落ち込む。落ち込んだ気分を無理に立て直そうとせず、引きずり引きずられるのも偶にはいいだろう。
今日は休日なのだから。ベッドから起き抜け、顔を洗い、ひとりリビングのソファに座る。
とり込んだまま畳んでいない洗濯物、寝る前に白湯を飲んでそのままのマグカップ、未読通知が溜まったSNS。全て見ないふりをして今日は何をしようと考える。今年の冬はあまり気温が下がらず、まだ3月も半ばに差しかかったばかりなのに、桜のつぼみは色づき始め、草木がもぞもぞと動き始めた。この週末は里山か自然公園へかに行こうと楽しみにしていたが、今日は急に冷え込み、雨まで降るものだから、出かける気力はすっかり萎えてしまっていた。
とりあえず朝ごはんを食べようかと立ち上がる。スリッパを履きなおしたところで、昨夜酔った勢いで食べ過ぎ、まだ重い胃に肩を掴まれソファに再び座らされる。何をしよう。
やりたいことはたくさんある。
本が読みたい――しかし、今読みさしている本は面白く、靄がかった頭で読むには勿体無い……
そういえば、仕事中に分からないことがあったのだ――しかし、調べようにも資料の一部を会社においてきてしまっていた……
雨の休日は手の込んだ料理をするにうってつけだ――しかし、お腹が空いていない……
そうだ、見たい映画がようやく始まったのだった――しかし、上映時間まであと2時間ある。中途半端だ……
肩こりがひどいからサウナに行きたい――しかし、生理がきてしまった……
エトセトラ、エトセトラ……やりたいことを挙げ、ひとつずつやれない理由でもって打ち消し、いかにも怠惰な人間らしい気力のなさを誤魔化しながらふらふらと寝室へ戻る。
目覚めたときに遮光カーテンを開けたおかげで、窓の外は雨ではあるが室内はほの明るい。布団に足を入れ、座ったまま未読のメッセージをひとつひとつ確認する。もはや陰鬱ですらない表情のない顔で、近い未来の楽しい予定の話題に可愛らしい絵文字を付す。
横になり、頭まで布団を被る。
部屋着のスカートが皺になっても構わない。目を覚まし、おもむろに携帯に手を伸ばし、未読のままにしていたメッセージを開き、アプリを落とす。
とつおいつ……ふと頭に浮かんだその言葉を、私のためにあるようだと一瞥して再び布団を被る。時間を確認するついでにTwitterのpostを見返していたら、眠る前の私はひどく落ち込んでいるようだった。
何がそんなにつらかったのだろう。
携帯の画面を落とし、目を瞑る。そろそろ夕飯のことを考えるべきか――空っぽの胃はまだ重い。
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in Manila
脚を、蛙のように広げたまま
窓の外に視線を移す。
そこにはどこまでも青い空が広がっていた。ホテルが面している大通りは昨日到着したときと同じように車と人で混雑しているのだろう。
しかし超高層階に位置するこの部屋にそんな喧騒は届かない。貴方の下敷きとなっている私の上半身に生えた腕は呼吸に合わせて貴方の背中をさする。
その腕はいつも、さするべきなのか、たたくべきなのか、それともただ放り出されておくべきなのかと迷う。
そしていつも、さすることを選ぶ。マニラという都市は一年を通して暑いという。
きっと、ホテルの部屋は一年を通してクーラーが効いているのだろう。
触れ合った肌は汗ばむこともなく、交換し合った互いのぬくもりはいつの間にかひとつの熱の帯となり、下半身へ流れ集まり、どこかへ消えていった。右肩に貴方の頭蓋が乗っているから
私の頭は左へ傾ぐ。この時間をどのようして区切るべきだろうか。
眠りに落ちようか、
貴方を除けようか、
否、このまま永遠へと引き伸ばしてしまおうとただ空を見つめる。