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    距離感

     休日の午前中に家事をしながら平日に聞き逃したラジオ番組を聴くことは私の楽しみのひとつだ。大物の洗濯をしようとベッドカバーを外しながら金曜夜のラジオ番組を聞いていたら、ゲストに芸人のふかわりょうが登場した。エッセイ集『世の中と足並みがそろわない』を発売するのだ。パーソナリティの武田砂鉄がエッセイ集の中から話題を取り上げ、いつもの平坦な低い声で「そうなんですよ、分かります」と言い、ふかわと会話を重ねていく。番組で披露する彼の世間との微妙な感性のずれには私も共感するところが多く、彼の言語化の巧みさに感心した。そして何より、私が敬愛する砂鉄と会話が盛り上がっている様子が好ましい。そそくさとエッセイ集をネットで購入する。

     1編目「略せない」はラジオで取り上げられた話題で、ようやく彼らの盛り上がりに追いつけたようで嬉しくなる。ふかわの文章は独特で、ああそうでした、こんなこともありました、それとこの話もさせてくださいと事象を被せながら展開する。まだあるのかと少し口うるさく感じるほどだが、ラジオで聞いたとおりの卑屈な性格が強調されるようでいい。
     しかし「女に敵うわけない」という作品で、これは偏見ですと前置きした上で女性一般に感じるガサツさを縷々述べ、それがまたいいのだと対象を貶しながら褒めたとき、裏切られたような気分になった。気に食わないものは気に食わないとはっきり述べ異議申し立てをするのではなかったか。欠点も愛おしいと急に自身の懐の深さをアピールするなんて、だらしなく伸びた鼻の下がまるで隠せていないにもほどがある。急に彼に対し落胆し、つまらない気持ちになる。
     20分程度のラジオトークで勝手に彼の人物像を作り上げ、勝手に好きになってしまう。砂鉄と盛り上がるくらいなのだから、一貫して斜に構え、誰にも媚びない人なのだろうと思い込む。しかしいざ、自分の手に虫眼鏡を持って近づいてみると、想像と異なる姿に勝手にがっかりしてしまう。恋する乙女ほどに身勝手な自分に気づき反省し、タフな私は再び人物像の練り直しを測ろうと、エッセイを読み進める。

     実は彼の芸人としてのネタを見たことがなかった。読了後、ブレイクのきっかけだという「小心者克服講座」をネット検索しYouTubeで見る。ジェネレーションギャップなのだろうか。ネタの合間に大きく映し出される飯島愛が笑う様子に全く共感できない。ふかわは終始無表情でエアロビクスのリズムに乗せネタを披露する。それと同じ顔で、わたしは画面上に繰り広げられるエンターテインメントを見守る。もう落胆はしない。そして続けてラーメンズの動画を見る。いつもなら短いコントを選ぶが、そのときは30分ほどの長いものを見た。そうでないと気が済まなかった。

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    大田区トリップ

     大学のゼミ同期の家にお呼ばれした。和食を用意してくれるというのでお土産も和で揃えようと決めれば、長原商店街で創作をしているという和菓子職人のアトリエ兼ショップを思い出す。

     通勤電車で毎回通り過ぎる、名前だけは馴染み深いJR蒲田駅で電車を降りる。改札を出て右手から駅ビルに入り、お菓子に合わせる茶葉を買って駅ビルを出て右手から改札に入ると、そこは線路が4本伸びた東急線のホームだ。改札上の案内板を見上げれば多摩川線と池上線の線路が2本ずつ敷かれていることは分かるのだが、長原駅に行くにはどれに乗ればいいのかまでは分からない。今一度、握ったiPhoneに時刻表アプリを表示し、五反田行の電車に乗ればいいことを理解する。五反田行なんてまどろっこしいことを言わないでそのままズバリホームのナンバーを示してくれればいいのにともう一度案内板を見上げて2番線で発車準備をする池上線に乗り込む。
     長原駅までは15分。膝に置いたショルダーバッグから読み始めたばかりの本を取り出す。平成の後の時代、放射能があらゆるものを汚染した。生まれてくる子供たちは様々な機能を欠き、歩くこともままならない。若い力を失った社会を、医療の発達により死から遥か遠ざかった高齢者が支えている。老人たちは孫・ひ孫たちを世話しながら、あまりに弱く不自然に動く彼らの姿に、自分たちとは違う生物なのではないかと隔絶を感じる。その一方、半世紀以上前の自分たちのひとつひとつの行いを悔いている。繊維を噛み切れないひ孫も果物を楽しめるようにとオレンジを絞ってジュースを作る100歳を超えた老人の姿を追いながら有り得べき恐ろしい未来の物語に浸り始めたころ、「間もなく『御岳山駅』」とアナウンスが流れた。長野県の山と同名の駅にはたと目を上げるが、車窓には淡々と住宅街の屋根が流れており、停車したそこもフェンスの外に住宅が連なっているだけだった。落胆も驚きもないまま手元に目を落とし、朽ち果てゆく世界に戻っていく。そこを横切る「次は『雪が谷大塚駅』」というアナウンスは異国情緒があり好ましいように思えた。
     しかし15分とは短いもので、物語は15ページ分しか進まない。「まもなく……」というアナウンスに従い本を閉じ、開いたドアに合わせて電車を降りる。15ページのトリップを超えたそこは真っ暗で、ホームを照らす光はやたらと白く、闇を際立たせた。蒲田で電車に乗ったのは16時過ぎ。西陽が屋舎を満たしていたはずだったが。ホームの壁面でバックライトに照らされた広告の住所の「大田区」という文字に「太田区」ではなかったかと眩暈がする。
    深い深い地下から恐る恐る階段を上っていく私は見つめる背中のないエウリュデュケ。向かってくる大学生と思しき女の子ふたり組はお洒落な駅舎だったらいいのにと話しながら冥府へ向かう。そう、高校生の頃、部活で区民センターに行ったときが私にとって初めてのオオタ区だった。池袋や丸の内のようにビルが建ち並び人があふれかえる街ではないなんて、オオタ区はその頃からおかしかったのだ。

     長い長い階段を抜けた先では夕方のひんやりとした空気が冥府から還る人を迎える。私はそのまま連休中日の商店街に誘い込まれ、ひとり暮らしの友人へのお土産には多すぎるであろう羊羹ひと竿を手にぶら下げ漂い歩く。

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    夜明け前

    起きた、眠れないから起きた。携帯から充電ケーブルを引きぬいて時間を確認すると4時だった。まだ夫の寝る部屋の電気を点けるわけにもいかないので、眼鏡を見つけられず何も見えないままホステルの階段を下りる。

    夕べ、勧められるがままにワインを飲んだものだから頭はなかなかはっきりしない。共有スペースのひとり掛けソファに腰かけ外を眺める。4時はまだ暗かった、5時もまだ暗かった。ずっと暗いままなのではないかと思うくらい長いこと日の出前の外を眺め、虫の声を聞いていた。

    そういえば大学生のときの私は眠れなかった。楽しいことがあれば素晴らしい一日が終わることを憂い、悲しいことがあればその気分にどっぷり浸かって抜け出せず、毎晩鬱々としたときを過ごしていた。埼玉の実家は市街地から外れていたからとても静かで、世界には自分ひとりしかいないのではないかと孤独を深めるにはちょうど良かった。

    ホステルの庭を打ち始めた雨の音に、離れて久しい実家の夜を思い出した。あまりにも多感で悩んでばかりの日々だった。しかし苦しみは遠く、この静かな優しい暗闇に包まれている今は、この夜が永遠に続けばいいと思う。

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    ある日のアフターファイブ

     職場で進めているプロジェクトは初めてのことだらけで、手探りで手当たり次第に取り組んでいるものだから、毎日気づく頃にはすっかり夜は更けており、夜ご飯を食べる時間と睡眠時間どちらが大事かと悩んでばかりだ。しかしその日は、業務を人に投げつけるだけ投げつけて私の手元はすっからかんになったので定時で上がることにした。急にできた時間をどうしてやろうかウキウキ考え、そういえばと丸の内の丸善へ行くことに決めた。新型コロナ流行以降、本が欲しくなれば果てるともなく連なる読みたい本リストの中からオンラインで注文するばかりだったから、当てもなく面白そうなものはないかと未知の本棚を眺めまわすのは非常に楽しかった。2時間かけて購入した4冊の本を背負いほくほくした気持ちで書店を出た。
     駅の改札を通ってから今更ながらと改めて時間を確認する。久しぶりの定時退社、久しぶりの本屋さん、この静かな高揚感をもう少し引き延ばしてもいいではないか。

     しばらく来ないうちに東京駅構内の開発はずいぶんと進んでおり、腰を落ち着けられる場所はないかと通路から店内をのぞき込みつつ歩き回る。なかなかいい場所が見つけられずフラストレーションが高まり、すっかりうんざりする前に帰るべきではないかと思い始めた頃、「ピエール・エルメ」と世界的に有名なパティシエの名前がカタカナで表記されたカフェショップを見つける。従来の華やかなイメージとは異なり、白を基調としたシンプルな内装が気分にマッチした。
     夕飯がまだだったのでフードメニューにも惹かれたが、ここはやはりスイーツだろうとショーケースを覗く。フルーツを混ぜ込んだマフィンやタルトは美味しいだけではなくお腹もいっぱいになって一石二鳥だ。しかしこのパティスリーならばマカロンを食べるのが定石ではないか。とはいえ、店舗限定商品も捨てがたい。数種類しかない商品を前にどうしたものかとぐるぐる悩んでしまう。そして結局、無造作に形成されたロールパンほどの大きさの白いメレンゲにクッキー状の赤いメレンゲが埋め込まれたお菓子を選ぶ。おいしそう、というよりもどうやって食べるのだろうという好奇心が働いた。焼き締められたメレンゲを一口大に割ろうとすればボロボロになるだろうし、同様の理由でかぶりつくわけにもいかない。どうやって頂くのが正解なのだろうか。
     注文を済ませると、お好きなところへどうぞとイートインスペースに案内される。ひとりで4人掛けテーブルを占有するのは気が引けたので、店外に面したカウンターのスツールに腰掛けた。
     するとすぐ、注文したメレンゲ菓子が運ばれてくる。添えられたナイフとフォークに気づき一瞬怯んだ。頭上にクエスチョンマークをたくさん浮かべながらお店が推奨しているであろうとおりにフォークでお菓子を抑えナイフを立てる。ショーケース前で想像したとおりそれはガリっと砕けた。あまりにも想像通りで笑ってしまう。目の前を人が通るのもお構いなしにひとりクスクスと笑ってしまう。エルメ~と突っ込みたくなってしまうほどに可笑しい。
     しかし、そんなにもお茶目なお菓子なのに、大きく割れたかけらをひとたび口に放ればその甘さにうっとりする。さらにコーヒーをひとくち含めば甘美さが深まる。先ほど買ってきたエッセイの1編は、読み終えてはお菓子をまた一口と繰り返すのにちょうどいい長さで、メレンゲが粉々になるまでそれを繰り返した。
     そしてこれも予想どおりで、最後はお皿に残った粉々のメレンゲと対峙することになる。逡巡するが早いか手早く四角いお皿の角にメレンゲを寄せ集める。さっと周りを見渡し、誰も見ていないことを確認してからフォークでそれをすくい完食した。食べきったぞとほくそ笑むも、粉々のメレンゲが残るはずが綺麗に平らげられたお皿に改めて直面すると急に気恥ずかしくなってくる。この席で散々思うがままに過ごしたのに、今更居たたまれなくなるとは自分でも理解に苦しむが、その日はそういうことのようで、そそくさとマスクをし、必要以上に颯爽と店を出る。何のためのカッコつけだか分からないが、仕事後にカフェで一息ついたキャリアウーマンを気取ってそのままホームへ歩いていく。

    電車に乗り、席に着いたとたん気が緩む。何から何まで楽しかったなあとマスクの下の口元まで緩み切る。

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    呪いを解くためのレッスン#2

    自分は何が好きなのかとか、何になりたいのかとか、もう何も分からなくなってしまった。
    もう、何が呪いなのかさえ分からない。私は完全に呪われ、自分が呪われていることさえ分からなくなった。

    日毎に草木が芽吹くのを感じるのが好きだった。
    葉陰が濃くなる一方で、きらきらと差し込む光を浴びれば身体のうちから力が湧き出るようだった。
    手をすかし、スカートを広げ、一歩歩いては振り返り、一瞬一瞬表情を変えるきらめきを見逃さないようにとしていた。
    緑から赤や黄色へそして茶へと葉の色が変わるのを死にゆくときを眺めているようで苦しかった。
    はだかの枝は寂しいが、これからまた新たな生命が生まれるのかとわくわくした。
    私はこの移ろいのために永遠に生きていたかった。

    朝起きてカーテンを開け、雲一つない空を見れば外へ飛び出さずにはいられなかった。
    雨が降れば本を広げ、雨音とともに何かが体に染み入るのを感じた。
    そのようにして外界から刺激を受ける度、抽象的な事物への想念が沸き起こった。
    思いを巡らせ、歓喜や怒り、憎悪、あらゆる感情にたどり着いた。
    理不尽を相手取り、見えない敵と戦った。
    心が平穏なときなどなく、常に動き形を変えるそれを感じることが悦びだった。

    そんな時代もあった。

    朝起きて仕事に行き、帰って夕食の支度をして夫の帰りを待つ。ふたりで笑いながら食事をし、食べ終えたころにはもう寝る時間で、毎日をそのように繰り返す。
    何はなくともそれだけで日々は流れていく。私の向かいに座るその人は満面の笑みを浮かべている。それを見れば私のこころも満たされ、世の中の些事なんてどうでもよくなってしまう。

    私は誰だったかな、かつてはそれを知っていた。

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    The seasons of corona

    今年の冬はあまり冷え込まなかった。例年はあまりの寒さに一刻も早い春の訪れを望むのに、コート一枚纏えば十分寒さを凌げてしまうものだから、来たる春に思いを致すこともなかった。

    だからだろうか、今年は春が来なかった。

    草木がもぞもぞと動き出し、知らぬ間に芽が吹つぼみが膨らんでいく。あらゆるものが目を覚まし日ごとに大きくなっていく、わくわくするような季節、それが春――そうだったと思う。もはや、春がどのようなものだったかさえ思い出せない、何も、何も思い出せない。

    春と呼ばれる最近の月日を振り返れば、私は常にLEDの光に包まれていた。安定したその光の中で健やかに暮らしていた。昼は部屋で仕事をし、夜は自分で作ったものを食べる。危険も、不安もない。要請のままに平穏を守った。
    しかし、夏と呼ばれるこれからの月日についてはそうはいかないらしく、慎重に適切な各人の判断で以て「日常生活」を営むよう求められている。自己責任というやつだ、疲れてしまう。

    だからもう、私はいいです、窓を閉め切り誰かの作った光の中で静かにさせておいてください、もう、草いきれも草陰の光もいらないから、茹だるような暑さのなか太陽に焼かれながら何かに引っ張られるように歩き続ける喜びなんて、後生望まないから。

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    きんぴらごぼう

    きんぴらごぼうを作ろうと泥のついたごぼうをこすり洗いしていたら、知らぬ間に手に力が入っていたようでポキリと折れてしまった。あんまり簡単に折れてしまうものだから反省のしようもなく、1本洗い終えないうちにもう一度折ってしまった。折れて何か困るというわけでもないのだが、数十円を惜しんだために自分の生来の不器用さに直面させられたようで逆に損した気分になった。
    しかし、包丁を握り、ささがきを始めれば削るほどに立ち上る土のような香りにうっとりして気分も変わる。水を張ったボウル一面を覆うささがきごぼうは宛ら白い花びらで、色を差せばよりきれいだろうとにんじんを手にとる。
    色が加わる度、香りが変わる度、その変化の喜びに手を止め、先の工程へ進もうかこれで完成としてしまおうか迷い、前者を選びとることの繰り返しを経て漸くきんぴらごぼうは完成した。
    青い方形のつやつやとした豆皿に盛って食卓に並べる。鷹の爪が利いたピリ辛のそれは、見た目にも舌にもいいアクセントとなった。


    ごぼうを丸々一本使うとそれなりの分量のきんぴらごぼうが出来上がる。その日の夕飯に出さなかった分を保存容器に移しながら、食べきるまで何日かかるだろうと考える。一汁三菜のうちの一品は今日もこれかと、うんざりせずとも記憶にある味に存在が褪せ、お気に入りの青い器がマンネリ化することを思うとぞっとしない。
    どうしたものかとインターネットで調べてみると、私と同じように、たくさん作ったはいいものの……と持て余している人は多いようで、マヨネーズで和えて味を変えてみたり肉で巻いてまったく違う料理にしたりとひざを打つようなアイデアが次々と出てくる。しかし、それら「リメイク料理」を素直に受け入れられない。ある料理について、そのようにして食べることが一番美味しいようにと作った工程を無視し、出来上がったものだけに注視した、文字通り美味しいとこどりの料理をどこか卑しく思ってしまうのだ。
    しかし、飽きられ喜ばれず、ただ消化されてしまうくらいならと、くだらないプライドを振り切ってリメイク料理を実践してみる。使い回しであることが気になりにくそうな炊き込みご飯にし、山椒の強い七味を振って食べてみれば存外に美味しい。夫も喜んでくれ、これでいいのかと拍子抜けする。

    そのとき、実はこっそりひとり分を取り分けていた。冷やかけうどんに盛り付けたらどうかと思いついてしまったのだ。何のひねりもない簡単なアイデアではあるが、ひとり在宅勤務のお昼時に食べてみれば想像したとおりで嬉しくなってしまう。美味しいものを独り占めすることに後ろめたさも感じたが、中途半端に残った夕食のおかずを翌日もさもさと食べるときを思い出し、料理担当の役得としてそのくらい許されようと自分を慰めてみる。

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    パン生活事始め

    結婚祝いにと、姉夫婦からすてきなトースターを頂いた。外はカリッと中はもちっとしたトーストを焼き上げる優秀な機能を備えている上に、オフホワイトの丸みのある形状が抜群にかわいい。
    早速近所の有名なパン屋さんで食パンを買って焼いてみる。スイッチを入れること2分弱。トーストとはこんなに美味しいものであったかと感激する。

    翌朝からの朝食をトーストに切り替えるべく買出しに出る。

    高校生の頃まで毎日の朝食はトーストだった。母親がスーパーで買ってくる8枚切の食パンにマーガリンを塗り、焼くというよりもマーガリンが溶ける程度に温めて食べていた。小学生の頃から、母親がお弁当の準備をする横で飽くことなく毎日そのようにして朝食を済ませていた。
    しかし、大学生になって以降は、帰りが遅くなり夕飯を翌朝に食べるようになったこため、日常的に食パンを食べることはなくなった。それに伴い母親もルーティンとしてパンを買うことはなくなり、ときたま食べたくなればそれは百貨店で扱うホテルブレッドだったり、美味しいと評判のパン屋さんへわざわざ遠出してみたりと、そのようにしてパンを食べることはちょっとした贅沢となっていた。

    スーパーのパン売り場に立ち、ずらりと並んだ食パンを見渡す。これまではパンを買うのに贅沢も奮発も厭わなかったけれど、毎日のこととなるとそうはいかないように思えたのだ。
    その一方で毎日のことだからこそ安全で美味しいものを選ぶべきではないのかとも思えた。さらに、最近流行の1斤が1,000円もする高級食パンならいざ知らず、町のパン屋さんの数百円のものを諦めなくてはいけないのかと聞かれると難しい。しかし、消費期限が短いのが難点ではある。2-3日で半斤食べきれる自信がまったくない。そうなるとやはり保存料やらなにやらと添加物がたっぷり使用された工場製品にするほかないだろう……ぐるぐる悩み始めるとキリがなく、実家ではそうだったのだからと、目の前の棚に積んである中から消費期限の長いものを確認してかごに入れる。
    毎日バタートーストだとなあ、という夫の言葉を胸に、薄切りハムを目指す。
    実は先週初めて自分でウィンナーを買った。ウィンナーがあると自炊をする上で何かと便利なのは分かっていたが、高校の家庭科の授業で加工肉の油分や成分の解説を受けたときの衝撃以来、大量生産の加工肉に強い抵抗感がある。とはいえ、安全なものをと思うと値段のために手が出ない。それでも先週はどうしてもナポリタンが食べたくなってしまい、とうとうスーパーでウィンナーを買うことにしたのだ。だからもうここで迷うことはないのだ。
    さて、と明後日が消費期限のものと1ヵ月後が賞味期限の2種類のハムを見比べる。明後日が消費期限のものは比較的少量ではあるが食パンと同様にやはり使いきれる自信はない。ウィンナーの初購入を果たした経験で以って賞味期限の長いものを購入することに決めたが、手を伸ばすとき、ちらと成分表示を見た。列挙される保存料は予想通りだが、「コチニール」という表示に思考が逆回転する。こちらでも高校の授業で見たコチニールカイガラムシを着色料として加工する動画が記憶に蘇り、さすがにだめだと、足の速いほうを手にとる。一応と、成分表示を確認する。「コチニール、くちなし」
    もう八方塞だと、気分を変えるために一旦売り場を離れる。
    乳製品コーナーではプラスチック容器に入った使い勝手のよいバターは軒並み売り切れていて、アルミに包まれているものしか残っていなかった。その一方で、マーガリンはたくさんあった。また悩んでしまう。マーガリンも美味しいのは知っている。溶けやすく使い勝手がいいのも知っている。しかし、マーガリンに多く含まれるトランス脂肪酸の身体への影響について一時期話題になっていたではないか。そのことを知っていてわざわざマーガリンを選ぶのは気が引けた。善意ならいざ知らず、悪意の上でそのようなものを家庭で出すような所業をしていいはずがない。しかし、安価さに惹かれてしまう。バターを切り分ける手間が省けるのも嬉しい。
    買い物はすばやく済ませるようにと叫ばれる現況下にも関わらずたっぷり十分間悩み、「トランス脂肪酸の低減に取り組んでいます」と表示されたマーガリンをかごに入れる。やむを得ない、明日からの朝食が懸かっているのだ。
    レジへ向かおうとするところでハムを選んでいないことに気付き、売り場に引き返す。賞味期限の長いハムを選ぶ。

    電子決済での支払いはなんと買い物をスムーズにしていることだろう。
    いまだにこれでよかったのだろうかと悩んでいるうちにレシートが発行される。

    実家のトースターは30年選手だ。我が家のトースターも先は長い。まだまだたっぷり悩める。
    まず手初めにと、食の安全についての本をネット注文した。今回買ったパンを食べきるまでには届くだろう。読み終えるのはハムを食べ終えるころだろうか。

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    食べるということ #darkness

    食べることが好き。
    食べ物の彩り、かおり、手やカトラリーで触れたときの感触、食感、その全ての味わいを楽しむにはほかのことを考える余裕はない。思い切り没入できることがあることはいいことだ。

    ときどき、全てが嫌になる。そういう時間は誰にでもある。だからもちろん私にもある。


    眠って忘れてしまえばいい。でも、うまく眠れない。
    ぼーっとテレビでも見ていればいい。でも、流し見の苦手な私はまともに流れ込んでくる情報の量に耐えられない。
    気分転換に運動する気力も、部屋の掃除をする気力も、何も、何もない。チョコレートを溶かしたような粘度のdepressionに絡め取られ、ただただその強い芳香の中に沈んでいく。何もせず、時間が過ぎるに任せようとするのを誰かが責める。一方で、うずくまっている隙を狙って日々のあらゆるタスクが頭を駆け巡る。ひゅんひゅんと音を立て、極彩の残像を残すそれらを退治するために、何かせねばと気が逸る――何も出来ないくせに――もう、耐えられない。

    甘いものが好き。
    アイス、ケーキ、ドーナツにクッキー、和菓子だって何だって好き。
    シュークリームを食べたいと思う。カスタードの舌触りとやさしい甘さが身に浸みる。
    チョコクッキーを食べたいと思う。サクサクとした食感に夢中になる。
    ドーナツを食べたいと思う。たっぷりとしたボリューム感に安心する。
    どら焼きを食べたいと思う。ぎゅっと詰まったあんこを挟むじわっと甘い皮が贅沢だ。
    アイスミルクを食べたいと思う。待ちきれない私はパッケージを破り、アイス片手に家へ向かう。

    食べることが好き。
    食べ物の彩り、かおり、手やカトラリーで触れたときの感触、食感、その全ての味わいを楽しむにはほかのことを考える余裕はない。
    お菓子を食べている私は忙しい。忙しすぎて嫌なことはつい全部忘れてしまう。満たされゆく胃だって無重力空間に飛ばしてしまう。

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    over coffee

    朝、カウンターを隔て、わたしはキッチンで、夫はリビングで、コーヒーを飲む。ラジオから流れる朝のニュースにあれやこれやと言いながら。はやり病へのぼんやりとした不安を抱えながら。
    7時30分になり、それぞれの部屋に解散する。

    このごろわたしたちは、感染症感染拡大防止対応としてそれぞれの会社から在宅勤務を命じられ、ひとつ屋根の下で仕事をしている。就業時間が異なるために昼食は別に摂るので、朝、各自の部屋に解散したら終業するまで顔を合わせることはない。お互い淡々と自身の業務に取り組む。6:30にそれぞれの会社に向かおうと、手を挙げ解散したきり夜まで顔を合わせることのない、これまでのふたりの距離感と何ら変わりはない。

    その日はどういう風の吹き回しだったのだろう、夕方ふたりでジョギングに行くことになった。仕事の手を止め、着替えて家を出る。わたしのペースで、ふたり並んで家の近くの川沿いを走る。日がのびて、夕方5時を回ってもまだ空は明るい。切れ切れの息の中でも、夕日に照らされた桜に感嘆の声を上げる。

    帰宅してすぐ夫は風呂場に向かう。ほとんど汗をかいていないわたしは夕食の準備を始める。梅干しをつぶし、大葉と一緒に鶏の胸肉で挟んで焼く。ブロッコリーを添え、大豆の煮物とお味噌汁と食卓に並べれば一汁三菜の食事の出来上がりだ。シャワーを浴び、さっぱりした夫と向かい合って食べる。片付けは彼に任せ、シャワーを浴びる。キッチンに戻ると、もう彼は自室に引き取っており、仕事を再開しているようだった。わたしも白湯を飲み、仕事に戻る。

    夜の10時、仕事は山積みだが、いつまでも仕事が続けられる環境だからといって就業規則を無視していいわけもなく、その日はPCを閉じた。夕方走ったおかげで心地よい疲労感が身体を包み、少し早いが寝室に向かう。夫も仕事を切り上げてきて、ふたりベッドに横になり一日を振り返る。

    朝起きて、ゆっくりコーヒーを飲んでから日々の生活のために仕事をする。気分転換に身体を動かし、ゆっくりと食事をする。自分の時間を自分の好きなように使え、なんと充実した一日であったことか。

    これが生活だよねえと話す。

    毎日、会社に縛られてへとへとになるまで仕事して、帰ってきたら寝るだけの生活なんておかしいよねえと抱きしめあう。

    寝物語にと、将来の夢の話をしてみせる。大学生のころに思い描き、それから変わることのない、イギリスの湖水地方でコーヒースタンドを営むという夢。
    きっとスタンドには近所の人しか来ないだろう。コーヒーを買いに来たのかおしゃべりをしに来たのか分からないお客さんを相手にするお店に座って、本を読み、文章を書きながら、ロマン主義が生まれた彼の地の、物憂くも美しい景色の中でその日暮らしの生活を送る。
    夫は眠たげな声で、いいねと相槌を打つ。

    コーヒースタンドで生計を立てる生活への思いは年を重ねるごとに強くなってきている。
    そこでは今のように、余裕があり、贅沢なものを食べたり旅行に行ったりはできないだろう。むしろ、明日への不安を抱きながら、相当工夫して切り詰めて暮らしていかなくてはならないだろう。それでも、見えない力に引っ張られるようにしてあくせく働き、これまでの人生で私が大切にし育んできたものを忘れ、知らぬ間に自分を殺して社会に順応するよりはずっといいように思える。

    寝しなに明日のジョギングの誘いを受けたが、筋肉痛がつらいだろうから私は散歩にしておくと返した。