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    接触

    鎌倉駅西口を出て由比ガ浜に向かう途中、前方に人だかりがあった。平日の午前中に大学生とも観光客とも見えない集団が何をしているのかと通りすがりに人々の隙間に目をやると、白髪の女性が横たわっており、枕にしている電柱の根元には血だまりができていた。そして向かいの八百屋からは、真っ白なタオルの入ったビニールを裂きながら大股で出てくる男性があった。

    私は転職に際して1か月間の有給休暇を過ごしているところで、旅行もし難い時勢にあるため、時折近場のいいところでランニングをするようになっていた。由比ガ浜から出発して江ノ島の灯台を折り返し戻ってくるコースは、晴れれば富士山が見えて気持ちがよく、走りに来るのはこれで3回目となる。往復で同じ道を通るから、腰越海岸あたりでおばあさんが歩道に椅子を出して日向ぼっこをしているのをこれまでに4回は見ている。前回は、走りながら聞いているラジオで魚の一夜干しが家で作れるなんて話をしていたものだから、このおばあさんも干物になってしまうのではないかと考えながら走りすぎたものだが、今回は定位置にその姿はなかった。

    どうにか15キロを完走し鎌倉駅へ戻る途中、来たときに人だかりができていたところを見遣ると水をまいた跡と古ぼけた自転車だけが残っていた。自転車のカゴには防犯用のカバーがかかっていた。

    そういえば、その前の土曜日の夜に家の近くの横断歩道の先で自転車2台が倒れるのを見た。自転車と同じ側で信号を待っていた人3, 4人が倒れた自転車を起こすのを手伝う。自転車に乗っていた一人は立ち上がろうとするもよろけて尻餅をついてしまう。信号が青に変わり、彼らの横を通るとき、3, 4人のうちの1人が携帯でどこかに電話していた。スーパーで買いものを済ませてその横断歩道に戻ると、そこには救急車とパトカー、それから自転車1台が止まっていた。人は1人もいなかった。

    そんなことをつらつら振り返りながら鎌倉から横浜に向けて横須賀線に乗っていると大船駅で小さなキャリーケースと歩行器を抱えた女性が駅員に介助されながら乗り込んできた。保土ヶ谷駅で電車が止まる時、慣性の法則に従ったキャリーケースが女性のそばを離れ、こちら側へ滑ってきた。私は、手を伸ばしてキャリーケースの取っ手をつかみ、持ち主の座る優先席へ引っ張っていった。お礼を頂いたので、マスクをしていても伝わる程に微笑んで席に戻った。
    私がキャリーケースをキャッチしたとき、隣に座っている女性が私の方へ顔を向けていた。今回は私の順番だったということか。

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    「先に進むには今持っている全部は持っていけない」って誰かが言っていた

    自分が転職を決心する日がくるとは思ってもみなかった。
    これまでも転職活動をしたことはあった。今の仕事をずっと続けていいのだろうかという漠とした不安。会社の業績悪化のざわめきに煽られる不安。しかし、もらった内定通知書から導き得る未来と、そのときに身を置く環境から続くであろう未来とを秤にかければ後者に傾く。何度も迷い、その度同じ場所から同じ方角に向けて走りなおす私が、まさか現職を辞めて新しい環境で走り出すことを選ぶとは。

    面接を終え、めでたくオファーをもらった後の第1の難関は、転職することをボスに切り出すことだった。
    ボスには、新社会人であった配属時より業務の手ほどきを受けていただけでなく、仕事に対する不安を受け止めてもらうこともあった。迷いや停滞が業務に顕在すれば、厳しい指摘を受けることもあったが、その度に私はここで頑張るのだと宣言した。
    転職は、私なりの考えがあっての決心ではあるが、これまでの宣言を反故することに相違ない。失望させることをひどく恐れていた。

    当初、これとは別に上半期の評価面談を直接の上司Mさんと3人でする予定だった。これがオファーを受けた1週間後で、忙しいボスの予定を変更するのも難しかったのでこの日に転職を切り出すことに決めた。アポが近づくにつれ、快く送り出してくれるのではないかと楽観的な考えを持つようになっていた。アポ前日には、もはや驚かれることなく受け止められるだろうと考えていた。むしろ、当初予定していた評価面談を、勝手にMさんを抜きの退職のお知らせに議題変更してしまうことが失礼な振る舞いではないかと気にかかっていた。
    そして、実際は、前日に想定していたとおりになった。前の予定が押したのだろう。遅れて入室してきたボスは席に着くなり切り出した。「Mさん抜きで二人で話したいことって何?」
    「えっと……退職したい……退職します。」
    「あら、どうしたの」
    応募先企業との面接と異なり、転職の必然性を語るのに熱意はいらなかった。転職活動をした理由は面接官に語ったよりもいくらかトーンダウンし、転職先での業務は丁寧に伝えた。どのように話をすべきか相談した姉からは、現職への不満を一切吐露しないで済むよう家庭の事情を理由とするようアドバイスをもらっていたが無視した。ボスに対してそんな茶番はできなかった。慕っている上司を前に決心に至るまでの葛藤を知ってほしいと思うほどに甘えた気持ちはないが、27歳にもなって評価面談で気持ちが昂ってしまう私が、建て前でこの場をやり過ごすことはできなかった。
    そして、デスクで待機しているMさんを呼び、会議室には3人となった。ボスが切り出す。
    「Nさん、退職します」
    Mさんは、一瞬、のけぞるように顎を上げた。驚いたときのいつもの反応だった。そして退職日をどうするかを確認して解散となった。面談は20分もかからなかった。

    どのタイミングだか覚えていないが、Mさんに「いいところ見つかったの?」と聞かれた。一瞬言葉に詰まったが「はい」とだけ、努めて明るく答えた。Mさんは目を細めて頷いた。仕事を褒めるときとも、結婚報告のときとも違う表情であった。いつか私も、子どもや部下の旅立ちに立ち会ったとき同じように目を細めるのかもしれない。

    引継ぎ等の細かい話をすることに備えて会議室に持ち込んだPCをデスクに戻してトイレに向かった。いったん呼吸を落ち着けなくてはいけなかった。それから普通に仕事をした。先輩からの頼まれごとにもいつもどおり対応した。その日は定時で退社し、会社から隣駅まで歩きながら母親に電話をした。父親は転職に反対だったらしい。きっと今より忙しくなるだろうから、きっと子育てに苦労するだろうから。