小学3年生とおとな

5月も後半へ差し掛かる頃、さわやかな快晴の日が続いた。広々としたところで本を読んだらさぞ気持ちよかろうと思い、土曜日の朝、早く起きられたので千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館へ行った。この美術館はさまざまな植物が植えられた庭園を有しており、新緑のこの季節はブナ林が特にきれいだ。

園内を一通り散策して、レストハウスのテラスで本を読む。頭上にかかるまだ明るい緑の柔らかな葉から透ける光が風に合わせてちらつき、その度に顔を上げるのでなかなかページが進まない。遠くに目を遣れば、芝生で遊ぶ家族や木陰で休む恋人連れに気づく。楽し気な雰囲気に惹かれてしばらくぼんやりと眺める。

日が暮れるまでずっとこのまま、本に手を添えながらここに座っていたかったが、夜に人との予定があるためそれはできなかった。最後にもういちど庭園を回ろうと、まだ日が高い時分に重い腰をあげた。

来たときは正体がわからなかった、ボチャンと水に入る生き物の正体を確かめようとハス池を覗いていると、小学生くらいの兄妹が隣にやってきた。ファミリー向けのアウトドア用カートに妹を乗せ、お兄ちゃんがそれを引いていた。妹はカートから身を乗り出し、お兄ちゃんは池の淵にしゃがみ込む。そばであんまりにも楽しそうにしているものだから、つい、何がいるのかと尋ねたところ、カメがいるとお兄ちゃんが教えてくれた。そのまま立ち上がって「いつもこっちにいるんだよ」と言いながら歩いていってしまうので、ついて行っていいものかと迷いながらも後を追う。

お兄ちゃんは「ゲンカメいるかな~」と池の淵をそっと歩く。何も答えないでいると「赤ちゃんかめのことをお父さんがゲンカメって呼ぶの」と私のほうを見上げる。今年の冬に生まれた弟がげんちゃんなのだ。

私のほうが先にゲンカメを見つけた。「いたよ!」と声を上げると、妹がカートの上で立ち上がるので、お兄ちゃんは手を貸して降ろしてあげた。

ほかにもゲンカメはいないかと、日向ぼっこしているカメが驚かないように3人でそっと池の周りを歩いた。しかし、ゲンカメを見つけられないうちに、私は帰りのバスの時間が心配になり「そろそろ帰らなきゃ」と切り出すと、お兄ちゃんが「もう帰っちゃうの」と聞いてきた。

はしゃぎたい盛りの子どもたちに不用意に声をかけて、池淵に留め置いていたのを心苦しく思っていたので、名残惜しそうにしたのは少し意外だった。

私の知っている子どもというのは、大学生のときにしていたバイトの子ども向けイベントにきている子どもたちで、偶のショッピングセンターへのお出かけのためか、彼らは目いっぱい親に甘えていた。ほしいものをねだり、帰りたくないと服の裾を引っ張ってもう少しもう少しと楽しい時間を引き延ばす。かわいらしかった。

しかし、小学3年生のお兄ちゃんは、その子らよりちょっと大人で、優しかった。名残惜しそうに見せても、無理を言おうとはしない。だから、私が甘えたくなってしまった。

「林の入り口まで送ってくれる?」とお願いした。バス停へ続くブナ林への入り口は、ご両親の目の届く範囲ではあるが、ハス池からは少し距離がある。それに歩いて見送ってもらうだけだから3人で遊ぶわけでもない。それを分かった上でお兄ちゃんは快諾してくれた。

しかし、カートを引きながら歩くには遠いようで、妹には待つよう言いおいて私と並んで歩き始める。

「高校生?」と聞かれて驚く。なんと答えればいいのか分からず「大人だよ」と言う。その答えに満足していない顔をするので「いつもはお仕事してるの」と付け加える。

それでも物足りないようで、ようやく気づく。小学3年生のことを全然知らないな、と。私も小学3年生を通ってきたはずなのだが、もうだいぶ遠い。

「大人」という答えには満足できないが、「会社員」と答えたとき、彼は理解できたのだろうか。しかし、高校を卒業したのは何年前だったかと数えなくてはいけないような私に高校生かと聞くほどに彼は小学生だ。

ブナ林の入り口までたどり着き、ありがとうと伝えると、さらにバス停まで送っていくと申し出てくれた。お母さんたちから離れちゃうからと断ったが、彼はいきなり走り出す。ハイヒールで林を走るのは大変で、引き離されながらついていく。

途中、開けたところにベンチがあり、ちょこんと座って待っていてくれたが、私には座らせる暇は与えてくれず、立ち止まろうとする私の手を引いてずんずん先を行く。

きらきらと光が差すブナ林はきれいで、今日はそれを楽しみに来たはずだったが、ゆっくり眺める余裕はなく、彼が一方的に話す学校での出来事にうんうん頷いているうちに間に林を抜けてしまった。息は上がったままだが、とりあえず、再度「送ってくれてありがとう」と言うと、彼は「じゃあね」と手をふらりと挙げ、きた道を引き返してしまった。

拍子抜けだ。

遠慮の言葉は意にも介さずさらりと手を引いて一緒にいてくれるのに、そんなにあっさり別れてしまうなんて。

私、そんなにつまらなかった?