ある日のアフターファイブ

 職場で進めているプロジェクトは初めてのことだらけで、手探りで手当たり次第に取り組んでいるものだから、毎日気づく頃にはすっかり夜は更けており、夜ご飯を食べる時間と睡眠時間どちらが大事かと悩んでばかりだ。しかしその日は、業務を人に投げつけるだけ投げつけて私の手元はすっからかんになったので定時で上がることにした。急にできた時間をどうしてやろうかウキウキ考え、そういえばと丸の内の丸善へ行くことに決めた。新型コロナ流行以降、本が欲しくなれば果てるともなく連なる読みたい本リストの中からオンラインで注文するばかりだったから、当てもなく面白そうなものはないかと未知の本棚を眺めまわすのは非常に楽しかった。2時間かけて購入した4冊の本を背負いほくほくした気持ちで書店を出た。
 駅の改札を通ってから今更ながらと改めて時間を確認する。久しぶりの定時退社、久しぶりの本屋さん、この静かな高揚感をもう少し引き延ばしてもいいではないか。

 しばらく来ないうちに東京駅構内の開発はずいぶんと進んでおり、腰を落ち着けられる場所はないかと通路から店内をのぞき込みつつ歩き回る。なかなかいい場所が見つけられずフラストレーションが高まり、すっかりうんざりする前に帰るべきではないかと思い始めた頃、「ピエール・エルメ」と世界的に有名なパティシエの名前がカタカナで表記されたカフェショップを見つける。従来の華やかなイメージとは異なり、白を基調としたシンプルな内装が気分にマッチした。
 夕飯がまだだったのでフードメニューにも惹かれたが、ここはやはりスイーツだろうとショーケースを覗く。フルーツを混ぜ込んだマフィンやタルトは美味しいだけではなくお腹もいっぱいになって一石二鳥だ。しかしこのパティスリーならばマカロンを食べるのが定石ではないか。とはいえ、店舗限定商品も捨てがたい。数種類しかない商品を前にどうしたものかとぐるぐる悩んでしまう。そして結局、無造作に形成されたロールパンほどの大きさの白いメレンゲにクッキー状の赤いメレンゲが埋め込まれたお菓子を選ぶ。おいしそう、というよりもどうやって食べるのだろうという好奇心が働いた。焼き締められたメレンゲを一口大に割ろうとすればボロボロになるだろうし、同様の理由でかぶりつくわけにもいかない。どうやって頂くのが正解なのだろうか。
 注文を済ませると、お好きなところへどうぞとイートインスペースに案内される。ひとりで4人掛けテーブルを占有するのは気が引けたので、店外に面したカウンターのスツールに腰掛けた。
 するとすぐ、注文したメレンゲ菓子が運ばれてくる。添えられたナイフとフォークに気づき一瞬怯んだ。頭上にクエスチョンマークをたくさん浮かべながらお店が推奨しているであろうとおりにフォークでお菓子を抑えナイフを立てる。ショーケース前で想像したとおりそれはガリっと砕けた。あまりにも想像通りで笑ってしまう。目の前を人が通るのもお構いなしにひとりクスクスと笑ってしまう。エルメ~と突っ込みたくなってしまうほどに可笑しい。
 しかし、そんなにもお茶目なお菓子なのに、大きく割れたかけらをひとたび口に放ればその甘さにうっとりする。さらにコーヒーをひとくち含めば甘美さが深まる。先ほど買ってきたエッセイの1編は、読み終えてはお菓子をまた一口と繰り返すのにちょうどいい長さで、メレンゲが粉々になるまでそれを繰り返した。
 そしてこれも予想どおりで、最後はお皿に残った粉々のメレンゲと対峙することになる。逡巡するが早いか手早く四角いお皿の角にメレンゲを寄せ集める。さっと周りを見渡し、誰も見ていないことを確認してからフォークでそれをすくい完食した。食べきったぞとほくそ笑むも、粉々のメレンゲが残るはずが綺麗に平らげられたお皿に改めて直面すると急に気恥ずかしくなってくる。この席で散々思うがままに過ごしたのに、今更居たたまれなくなるとは自分でも理解に苦しむが、その日はそういうことのようで、そそくさとマスクをし、必要以上に颯爽と店を出る。何のためのカッコつけだか分からないが、仕事後にカフェで一息ついたキャリアウーマンを気取ってそのままホームへ歩いていく。

電車に乗り、席に着いたとたん気が緩む。何から何まで楽しかったなあとマスクの下の口元まで緩み切る。