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    「いま?信州にいるのよ」

    3月半ば、友人からGWの予定がないと連絡がきた。彼女と出かけるのであれば、おしゃれなカフェを巡ったり、買い物をしたりするのもいいのだが、せっかくの長期連休なのだから遠出をしたいと考えていたところ、何故だか急に天体観測をしてみたいと思いいたった。月齢を調べてみると、新月ではないにしてもきれいな星空が見えるであろう程度に控えめな月のようだったので、実行することとした。

    これまで天体観測をしたいだなんて思ったことがなかったので、どこを目指せばいいのかさえ分からない。まずは「天体観測 場所」と検索してみる。どうも長野県の阿智村が日本有数の天体観測スポットのようで、バスツアーで行くのが一番楽そうであった。

    美しい星空が見れさえすればよかったので、目的地だけ確認し、旅程の詳細はほとんど確認せずに参加した。

    規則的な揺れと密閉空間による空気の薄さのためか、友人はひたすら眠っていた。おとなになって三半規管が強くなったのか、鈍くなったのか、大型バスであれば読書ができることに気づいた私はひたすら本を読んでいた。

    2時間前後で挟む休憩のたびに添乗員さんより次の目的地が告げられるが、聞きなれない地名に自分たちがどこにいるのか、どこに向かっているのかは判然とせず、また、組まれた旅程に積極的に関与する気も起きず、ただただ運ばれていく。

    本も読み疲れ、車窓を眺めながらとりとめもなく考えごとをしていたところ、前の席の60過ぎの女性の携帯電話が小さく鳴った。「いま?信州にいるのよ」と彼女は答え、数語言葉を交わしてから電話を切った。

    電話しても大丈夫な状況か聞かれたのだろうか。せっかく旅行に来ているのにバスに乗っていると答えて電話を切るのでは味気ないから、旅先を伝えようにも彼女もどこにいるのか――どこに行こうとしているのか分からず、苦し紛れにおおざっぱな所在地を答えたのだろう。

    その夜、星空を見ようと一行で高原まで行ったが、厚い雲に覆われた空には何も見つけることはできなかった。

    私たちはどこへ行き、何をして2日間を過ごしたのだろう。

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    24歳 春

    先日、TBSラジオ「荻上チキSession22」で1994年に起きたルワンダ虐殺事件の特集をしていた。「ちょうど」私の生まれた年のことだと興味を持ち、リアルタイムで聞くことのできなかった個所はストリーミング放送を聞いた。

    最近1994年に起きたできごとを取り上げた特集番組をよく見かける。端数であり、なぜ今更そんなときのことをいぶかしく思っていたのだが、1994年とはちょうど四半世紀前に当たることにようやく気が付いた。誕生日は秋で、まだ24歳であるためにまったくその時間感覚がリンクしなかったのだろう。

    それにしても、だ。特集を聞くまでルワンダで大規模虐殺が行われたということを全く知らなかった。そして、今、知人に薦められて本事件を扱ったルポ作品『ジェノサイドの丘』を読んでいる。あまりに凄惨で飲み込むことのできない事実もさることながら、人間の行為から見えるその存在の脆さに、まだ1/4程度しか読めていないにも関わらずショックを受けている。しかし、特集を聞かなければ私は一生このことを知らないでいたかもしれなかった。なんと恐ろしいことか。

    当たり前だが、世界には私の知らないことはごまんとある。しかし、その「知らないこと」は、人間ひとりの知の限界を考慮した上で、知るべきか否かで切り捨てられたものごとではない。たまたま通り過ぎてしまった/出会い損ねてしまったものごとなのだ。久しぶりに、知らないことへの恐怖を覚えた。思い出せてよかった。まだ、取り返せる。