M式、私式

人の顔というのは、顎を引けば張り出した額に光が当たり、鼻根より下は影になる。

お前のその影に指をつっこみ肉を掬い出してやりたい。生温かな、黄色の、塊。そう、瞼の描く半円に沿って5本の指を差し入れてやろう。私を見ようともしないその目から光を奪ってやろう。

展示室の入り口で私を出迎えた2枚の自画像に暴力的な気持ちが沸き起こる。
アーティゾン美術館で、企画展「M式「海の幸」森村泰昌-ワタシガタリノシンワ-」が開催されている。石橋財団コレクションと現代美術家の共演する試みとして、今回は「海の幸」等で知られる青木繁と、今東西の絵画や写真に表された人物に変装し、独自の解釈を加えて再現する「自画像的作品」をテーマに制作する森村泰昌が共演することとなった。
企画の中心は、森村が「海の幸」を再解釈するにおいて制作された新作である。その導入として、本企画展は青木の作品から始まる。
青木にとって、彼の強烈な自己意識を表現するには、自画像はうってつけの題材であったという。それを入り口に配することで、鑑賞者の画家に対する理解を促す。私は彼の自負心を察知した。

淡彩画による3枚目の自画像では、青木は、薄闇を背に顔だけをこちらに向ける。キャプションに記された粗野な暮らしぶりがその自画像に奥行きを持たせるも、入り口の2枚とは異なり、その絵が私にもたらした印象はカンバスに乗せられた色の淡さと同程度でしかなかった。
しかし、本作品が本企画における青木と森村の結節点であった。森村が青木に扮した自身の写真を用い、青木の自画像を再構築させた絵がそのはす向かいに位置する。青木と同じように横を向いた身体を、オレンジの線がなぞる。精神からなのか、身体からなのか、皮層からエネルギーがほとばしり暗闇でスパークする。目線は遠く、高く、獲物に照準を定めたまま動かない。冷や水のように嫉妬と悔恨が私の頭からつま先へと流れた。
森村は青木を理解しようと試み、その結実のひとつとしてこのポートレートがあった。左に並ぶオリジナルの肖像画より強いインパクトを持つその絵。それは写真を用いたことによる本物らしさの増大にだけよるものではない。単なる転写ではなく、森村なりの解釈と森村のエネルギーが青木のオリジナルをエンハンスさせたのであろう。
青木に森村を重ねることで前景化される森村。これが森村の自己表現であったか。

強い自意識を持つ青木にとっても自画像は格好の題材だったという。私も、自画像を描けば自己の正体を見出すことができるだろうか。しかし、私は絵筆の持ち方を知らない。こうやって文章を書いていれば、その蓄積が私の自画像となっていくのであろうか。そうであればキーを打つ手を止めるわけにはいかない。