背中を聞く
生後半年を過ぎた息子は、初めての場所に行くときょろきょろしてばかりいる。先日家族で初めてファミレスに行ったときもそうだった。そわそわしてじっと座っていられない。大きなテーブルも、お隣のお姉さんも、高い天井も気になる。そんな調子だから、散歩に出るときも私と対面するのではなく、前向きでベビーカーに乗せる。母の顔より景色を見た方がよっぽど楽しいだろうと考えてのことだ。生後4か月ごろに試したときは母の顔が見えないのが不安なのか泣いてしまったが、今はもう悠然としている。しかしこうなってくると、母の方が不安になってくる。普段は表情や仕草で快不快を読み取っている手前、暑くないだろうか、散歩は楽しいのだろうか、眠くなっていないだろうか気になって仕方がない。
絵本を読んでいるときもそうだ。膝の上に座らせ、文字を読んでやる。息子のペースで絵や物語を楽しめるように文字を読んだ後の数秒はページをそのままにする。すると息子が私の腕を叩く。その仕草が読み終えた合図なのだろうと次のページに進む。それを繰り返し、おしまい、と本を閉じて脇に置くが、彼は本を追うように首を回す。もう一回読んでほしいのかしらと同じ本を再び開く。そして読み終えた後、「面白かった?」と抱え上げて聞いてみるも、彼は眉一つ動かさない。おとなしく背中を預けているのだから嫌いではないのだろうと信じて毎日絵本を読んでいる。
お座りができるようになったころ、試しに対面で絵本を読んだことがある。和歌山静子さんの『ひまわり』は上下開きになっており、「どんどこ どんどこ」と力強い擬音と共にひまわりの成長を追っていくものだ。私が気に入って何度も読んでいるのだが、このとき息子は頭を上下させながら見開きの絵を一生懸命見ていた。普段はゆるく開いているか、とんがらせている口元もこのときは半月のようにぱっと明るく開いており、楽しそうではないかと安堵した。
小さな背中は重い頭を何とか支えられるようになったくらいで、頼もしいなんて言葉は縁遠い。つい支えて、逐一大丈夫?と声をかけずにはいられない。だけど母は、耳を澄ませてその欲するところを聞いていたい。聞き間違えたときはどんな誹りも受け入れる所存だ。