冬田のかかし
冬晴れの日、白く乾燥した田んぼの中に老婆がいた。じっと立って何を見ているのだろうと彼女の視線を追うが、遠くの工場から煙が上るばかりで何もない。太陽は暖かいが、あずき色の服が風にそよぐのは寒そうであった。そして気づく、袖に腕が通っていないことに。ズボンの裾の先に足がないことに。
彼女は毎日田んぼの中で立ち続け、臨月を迎える私は毎日その田んぼの傍を散歩した。彼女は常に背筋を伸ばし、私は腹が張るのを感じ時折腰を折った。
一面田んぼの散歩道は、日差しを遮るものがないため太陽さえ出ていれば冬でも暖かい。しかしその日は寒波を前に太陽は厚い雲に覆われた。いつもの格好で散歩に出たものの、耐えきれずフードを被り手をコートの袖の中に隠す。畔は枯草に覆われ、古いアスファルトは余計白く見えるように思えた。工場への出勤だろうか、後方から車が過ぎていった。音につられてその白い車の方へ目線を送りながら、彼女の姿をまだ見ていないことに気づく。自分がどのあたりにいるのか判然としないまま遠くの田んぼや近くの田んぼに視界を移しつつ歩き、色あせて灰色になった速度制限の道路標識を過ぎたところで彼女を見つける。相変わらず背筋を伸ばしてあずき色の服をたなびかせていた。
茫漠とした景色の中を歩いていると、やり残したことばかりが気になった。去年の3月にハーフマラソンの大会に出る予定だったが感染症の影響で中止となった。フルマラソンへの挑戦も自然に立ち消えた。夏には友人と宝塚へ歌劇を見に行く予定だった。しかし体調が思わしくなく見送りとなった。感染症の影響でオンライン開催となっていた母校のクリスマスミサが3年ぶりに臨場開催となったが、いざ時間になると仕事の疲労感で参列できなかった。長期休暇に入るに際して業務マニュアルに追加して自分がやりたかったことのメモを渡すつもりだった。しかし頭も体力も最低限のことを遂行することに必死で手が回らなかった。こうすればよかった、ああすればよかった、次にできるのはいつだろう……。
田植えが済むとこの辺りは鮮やかだ。夏は青い稲が光を弾き、秋には金色の稲穂が風を送る。しかし老婆はあずき色の服を着て同じ場所に立ち続ける。過ぎた季節を思い出すこともなく、また、迎える季節を想像することもなく、ただまっすぐ背筋を伸ばして居るだろう。