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    わたしが言語学者だったなら

    日々翻訳ソフトに英文メールを貼り付けている会社員である今となってはあまり言いたくないのだが、一応文学部英米文学科を出ている。1~2年生時は、必修科目として文学、コミュニケーション学、言語学を受講しなくてはならない。つまり、洋画が好きとか英語ができた方が就活に有利そうとかいった理由で入学してきた有象無象を形だけでもアカデミアのルートに乗せるため、まずはひととおり文学科に属する科目に触れさせ、その後の専門課程を選ぶ材料にさせるのだ。

    結果として私は文学を選んだわけで、ほかの科目についての知識なんてもはや記憶にない。受講することが苦痛ならば、出席だけして内職したり居眠りしたりしてやり過ごせばよく、小中高校のように何とか乗り切る必要はなかったから、記憶から消えたというより、あたまの中の記憶をとどめる小部屋を通過してすらいないのだろう。ただ、コミュニケーション学にしても言語学にしても気持ちが離れてしまった瞬間だけは覚えている。言語学は初回の授業が音素の話だった。音素とは言語の最小単位——つまりは音声言語における必須の要素なのだから、今となってはその重要性も分かりはするが、母語ならばいざ知らず、授業の中でしか使うことのない英語の音素なんて末節もいいところで、すべての話が耳を素通りしていった。

    さて、そろそろ2歳になる息子は乗り物が大好きだ。先日初めてバスに乗った。何か言ったと思えば「バス」しかないので、その愛に折れて駅から家までの一区分を乗ってみたのだ。静かに乗っているものだから、乗った感覚は大したものではなく、外から眺めている方がやはり面白かったのかなと思っていたら、家に帰ってから「バス、大き、かった」と話しかけてくるのである。乗る前からバスが大きいなんてことはわかっていただろうに、なんて野暮なことを考えるも、彼なりの感動の伝え方だったのかなと少し嬉しくもある。ただ、この発言の肝はそこではないのだ。彼が形容詞を言うようになったのはつい最近のことだ。さらに「みずのみたい」以外では聞いたことのない二語文だ。そして極めつけは過去形を繰り出したのだ。しかも文節を区切って。

    これはどういうことかと子どもの言語獲得に関する本を読んでみると、赤ちゃんは名詞⇒動詞⇒形容詞の順で言葉を習得していくという。さらに、耳に入ってくる文章から単語を抽出・認識するには、よく聞く音の並びを学習することで単語を見つけ出すというのだ。つまり「お母さん」を認識するためには、「おかあさ」ときたら次は「ん」が来ることが多いぞ、これは「おかあさん」という単語なのだなと認識する取り組みを、聞こえてくる音に総当たりでしていることになる。そうなると、語形が変化する動詞や形容詞・形容動詞の習得は、その規則の存在を発見することから始まるわけで、「大き、かった」とはまさにその出現であろう。ああ、私が言語学を修めていたならば、これを眼前にいくらでも思索を広げていただろう。

    ついでに息子が初めて発語した感情形容詞を紹介しよう。それは「たのしい」である。クッキーを作りながら、「たのしい、たのしい」と連呼していた。夫が会社の研修で「どんな世界にしたいか」というテーマでグループディスカッションをしたという。彼は、息子が目に映る全てが新鮮で、毎秒毎秒好奇心に引っ張られるように暮らす様を思い浮かべ、「朝は早く起きたくなり、夜眠りたくないような世界」と答えたという。言語学をドロップアウトした私でも、文学研究の過程で言語学者であるソシュールは避けて通れない。彼は「言語が世界を文節していく」と言った。つまり、事物の区別をつけているのは言葉なのだ。そうであるならば、「楽しい」の出現は「楽しくない」ことの発見の過程でもある。さて夫の理想の世界はいつまで息子の眼前に在り続けるだろうか。