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夕飯のカレー
久しぶりの出社は暑さと相俟ってやたらと疲れた。1時間の残業を終え、電車の座席に座り込み甘いものが欲しいと夢想する――ケーキ、パフェ、あんみつ、シュークリーム――。出勤前に仕込んだカレーは電気圧力鍋のスイッチを入れれば出来上がるが、早く帰らないと夕飯の時間に間に合わない。しかし、品川のアトレでケーキを買うくらいならどうにかなるのではないか――ああ、蒲田駅前のたい焼きもいい、東急のケーキ屋も悪くない――。
握った携帯が震える。夫からのメッセージで、急遽飲み会となったから夕飯はいらないと言う。帰りを待つ私を気遣う夫が当日に予定を入れるのは初めてで、いつもより早く起きて夕飯の準備した甲斐がなくなることを悔やむよりも、彼が自分の都合を優先したことに安堵する。カレーだから火さえ通せば日持ちはするので構わないのだ――サーティワンのポッピングシャワーも食べたい――。
迷っているうちに目ぼしい駅は過ぎてしまったが、自宅の最寄り駅付近もなかなか繁盛していて悪くない――フルーツ盛り合わせ、プリン、チーズケーキ、クッキーシュー――こってりとしたボリューム感のあるものがいい。電車を降りる。
有象無象に次々と現れる甘いものの中から疲れを癒す最善の一手を決める気力もなく、プライスカードを眺めているうちに駅周辺を一周してしまった。仕方がないので出発点にあったプリンケーキを買う。すぐ食べるつもりで保冷剤はつけなかった。
それなのに、気持ちとは裏腹に脚は上がらず歩みはとろく、大した距離ではないのになかなか家に辿り着かない。ようやくマンションが視界に入ったところで通勤路唯一の信号が赤に変わる。大通りを横断する信号はそうすぐには変わらない。座り込みたくなった。
やっとの思いで家に上がりケーキをテーブルに置く。とにかくカレーを完成させなくてはいけない。下ごしらえした材料を冷蔵庫から出して電気圧力鍋のスイッチを入れる。これで事は済んだ。
ふらふらと自室に向かい、背負いっぱなしのリュックを下ろしてコンタクトレンズを外し、ストッキングを脱ぐ。塞がれていた排気口が空いたように身体の緊張が抜けた。すると風呂嫌いの私にしては珍しくその気になったのでケーキを冷蔵庫に入れ浴室に向かう。帰路では気が向いたらやればいいと思っていた洗濯物の取り込みも脚のマッサージも、シャワーを浴びた勢いでできてしまった。
身体がさっぱりするとしっかり腹が空いていることに気づく。ちょうどカレーも出来上がったので、ひとりとなってしまったが予定どおりの夕飯を済ませ、特別なデザートのプリンケーキを食べる。プリンの甘さとカラメルのほろ苦さが刺激的で、じゅわっとしたスポンジの食感は心地よく、今まさに求めていたものだった。水を飲み、腹ごなしがてら夜の散歩に出かけた。
こんなに満たされた締めくくりができるなら、日中の緊張感も夕方の疲労感もすべてチャラだ。ただ、ケーキ代は自分のおこづかいではなく家計から出すことにする。怒ってはいないけれど、無下にされたカレーを忘れてはならない。