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    ハムカツ定食

    こころの乱れは食事に出、悪食がまたこころを蝕む。ダイエットのために設けた食事制限は無視され、電子決済アプリの履歴を見ればコンビニでの支払いがかさんでいた。負のスパイラルを止められるのはスイーツバイキングでも、きれいなレストランでのディナーでもない。私を救うことができるのは定食なのだ。これが一人前だと白米とみそ汁とおかずが過不足なく供される。私は目の前に並べられた食事を迷いなく平らげるだけでいい。

    在宅勤務の昼休み、近所の定食屋さんに行く。そこのハムカツは400gもあるということでテレビの特盛レストラン特集なんかでも取り上げられたことがあるらしい。インターネットで調べた情報に倣いハムカツ定食を注文し4人掛けのテーブル席で壁に貼られた有名人のサイン色紙を眺めていたら、後から入店してきたガタイのいいスーツの男性が相席になった。よく来ているのだろう、席に着くなり短く注文をした。そして先に男性の料理が来る。ドライカレーに粗びきのハンバーグがドンと乗っており、これは何だと急いでメニューを見直す。ハムカツのほかにも美味しそうなものがあるのではないかと後悔し始めたところに私のハムカツ定食が来た。
    皿の上には厚さ3センチ程度のピンクの断面が4つ並ぶ。実物を前にすると、あまりのダイナミックさにどう手を食べればいいのかと困ってしまう。とりあえずはお作法どおり味噌汁を一口含み、プレートに盛られた白米を口に運ぶ。ハムカツに手を伸ばす前に改めて卓上を見まわし、私に提供された道具は現に手に持つ割りばしのみであることを確かめる。フォークもナイフもなかった。迷うことはない、つかむ道具であるところの箸でしっかりハムカツをとらえ、切る道具であるところの歯でもってそれをかじる。咀嚼し、嚥下し、またかじる。かじる。大きな揚げ物の塊をかみ切るとき、分厚いハムの弾力を感じた。咀嚼するときに崩れるその脆さに、衣の甘さに、ハムカツを知る。おしとやかに一口大に切らなくとも私はそれが食べられる。

    一汁三菜を平らげ店を出る。こんなに満たされる食事はあっただろうかと考えながら午後の勤務を目指し家路を急ぐ。

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    米屋のカレンダー

    スーパーで夕飯の材料を買い、家の近くの米屋に寄った。新米ステッカーが貼られた秋田県産あきたこまちの玄米を2kg頼む。宮崎県産コシヒカリにも新米ステッカーは貼ってあった。値段もあきたこまちと同じく480円/kgだった。米屋のおじさんは、バケツのような計量カップで米櫃から玄米を掬いながら「960円ですね」と言う。私は右手の親指でpaypayを立ち上げ、レジ横に掲示されたQRコードを読み取って9, 6, 0、と打ち込み、おじさんを待ちながら陳列棚を眺めていた。「冷めても美味しいブランド米!」というポップの下には1280円と書かれた値札が置かれていた。米袋を提げたおじさんがレジに入ってきたので、携帯の画面を見せて支払いボタンを押した。さっきまで静かにしていた私の携帯が「ペイペイ!」と声を上げる。私たちふたりは何も言わなかった。
    無言のままおじさんが新しいビニール袋を出そうとするので「大丈夫です」と断るとお礼を言われた。「カレンダー、渡しましたっけ?」と聞かれ、「いえ」と答える。段ボールから筒状に丸められたカレンダーを引き抜こうとするので「今日は雨だから。また年内に来るでしょうし」と断ると、「なくなっちゃうから」と今度は食い下がった。貼る場所がないからと言えない私は「ありがとうございます」と言って受け取った。自動ドアの『押してください』ボタンを押して「いただきます」と半身でお辞儀をしながら店を出る。
    『いただきます』でいいのだろうかといつも悩む。『ごちそうさまです』ではないとも思うけれど。

    空いているけれど私のじゃない壁 畳に転がす2022

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    M式、私式

    人の顔というのは、顎を引けば張り出した額に光が当たり、鼻根より下は影になる。

    お前のその影に指をつっこみ肉を掬い出してやりたい。生温かな、黄色の、塊。そう、瞼の描く半円に沿って5本の指を差し入れてやろう。私を見ようともしないその目から光を奪ってやろう。

    展示室の入り口で私を出迎えた2枚の自画像に暴力的な気持ちが沸き起こる。
    アーティゾン美術館で、企画展「M式「海の幸」森村泰昌-ワタシガタリノシンワ-」が開催されている。石橋財団コレクションと現代美術家の共演する試みとして、今回は「海の幸」等で知られる青木繁と、今東西の絵画や写真に表された人物に変装し、独自の解釈を加えて再現する「自画像的作品」をテーマに制作する森村泰昌が共演することとなった。
    企画の中心は、森村が「海の幸」を再解釈するにおいて制作された新作である。その導入として、本企画展は青木の作品から始まる。
    青木にとって、彼の強烈な自己意識を表現するには、自画像はうってつけの題材であったという。それを入り口に配することで、鑑賞者の画家に対する理解を促す。私は彼の自負心を察知した。

    淡彩画による3枚目の自画像では、青木は、薄闇を背に顔だけをこちらに向ける。キャプションに記された粗野な暮らしぶりがその自画像に奥行きを持たせるも、入り口の2枚とは異なり、その絵が私にもたらした印象はカンバスに乗せられた色の淡さと同程度でしかなかった。
    しかし、本作品が本企画における青木と森村の結節点であった。森村が青木に扮した自身の写真を用い、青木の自画像を再構築させた絵がそのはす向かいに位置する。青木と同じように横を向いた身体を、オレンジの線がなぞる。精神からなのか、身体からなのか、皮層からエネルギーがほとばしり暗闇でスパークする。目線は遠く、高く、獲物に照準を定めたまま動かない。冷や水のように嫉妬と悔恨が私の頭からつま先へと流れた。
    森村は青木を理解しようと試み、その結実のひとつとしてこのポートレートがあった。左に並ぶオリジナルの肖像画より強いインパクトを持つその絵。それは写真を用いたことによる本物らしさの増大にだけよるものではない。単なる転写ではなく、森村なりの解釈と森村のエネルギーが青木のオリジナルをエンハンスさせたのであろう。
    青木に森村を重ねることで前景化される森村。これが森村の自己表現であったか。

    強い自意識を持つ青木にとっても自画像は格好の題材だったという。私も、自画像を描けば自己の正体を見出すことができるだろうか。しかし、私は絵筆の持ち方を知らない。こうやって文章を書いていれば、その蓄積が私の自画像となっていくのであろうか。そうであればキーを打つ手を止めるわけにはいかない。