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    たばこ

    寒くなるとたばこが吸いたくなる。午後の仕事がひと段落した16時ごろ、次の仕事に取り掛かる前、いつもより静かに席を立つ。階段を下りながら、お財布やらハンカチやらを入れている小さな手提げをまさぐって、フラッシュメモリスティックより一回り大きいくらいのプラスチックのバーとビニールに包まれた箱が手に当たるのを確かめる。
    5階の非常扉は6畳ほどのバルコニーに繋がっている。しかしこのバルコニーは、この語が想起させる、大小さまざまの鉢植えに太陽がさんさんと降り注いているような明るい空間には程遠く、ただ真ん中にさび付いた赤い灰皿スタンドとバケツだけが置かれた場所である。
    扉から向かって右角に陣取り、手提げから100円ライターと赤のマルボロを取り出す。火を点け、1口目。軽く吸い、けむりが肺に入るのを確かめる。空気より重くて、空気と違って味がある。2口目、深く吸い、けむりが肺を満たすのを感じる。
    遠くを見ると、空はもう昼休みに見た青空ではなくなっていた。水色というには暗すぎて、黒というには明るすぎ、東京駅周辺のビルから漏れる明かりと空の明度は一致した。しかし、あと30分もすれば完全に日が沈み、長い夜が始まる。そしたらビル群の明かりが夜の黒を圧倒するだろう。
    肺を満たした煙の分だけ、息を吐く。


    光が入れ替わる時間は、空気も入れ替わるのだろうか。けむりに絡まり肺に忍び込んだ空気はひんやりしていていた。身体の表層にまとわりついている陽の名残も人々がオフィスで発散させている熱気も忘れさせる。

    急いた分だけたばこが短くなるのも厭わず、束の間の均衡を味わい損ねることがないよう3口目、4口目……苦みが強くなる。

    水を張ったバケツで火を消して吸い殻入れに始末しバルコニーを後にする。

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    It’s mine

    朝靄が山々を包む。白い光が空を満たし、木々の影は紫から赤へと色を変えていく。壁いっぱいの窓枠は、その浅間尾根の目覚めを一枚の絵画のように切り出した。

    清廉な明け方——夜更けの雨は深酒の狂乱を洗い流し、乱痴気者が寝静まった頃を見計らい瞬いていた満点の星空はここに終着した。太陽の明かりは鑑賞者の不在に耐えかね、私を夢の底から引き上げた。
    シェードを下ろし忘れたガラス扉から漏れる光に誘われ外へ出る。
    息を吸い、息を吐く。姿の見えない鳥が鳴き、眼前を占める山が未だ漂う朝靄と絡み合う。どうしてくれようか。
    夫の友人夫婦と4人で奥多摩の一棟貸しホテルに宿泊した。所在地は公表されておらず、予約完了メールと共に目的地としてフラグの立ったGoogle mapの情報が送られてくる。それに従い細い山道を登っている間、何台かの車とすれ違いはしたが、私たちの行く先にはそのホテル以外何もないようであった。
    開放的な部屋で映画を見ながらくつろぎ、夜には持ち込んだ食材でBBQをした。友人夫婦はシャンパンやケーキで結婚式を挙げたばかりの私たちを祝ってくれたようだが、二本目のワインに続く記憶は満点の星空であった。
    さあ、BBQコンロの周りやテーブル上に散逸する皿、喧騒から離れた場所で読もうと持ってきた本、独り占めの空間、何をすれば私は満足できるのか?
    正しい選択肢がわからないまま昨夜の片付けを始める。これは家で飲み会をした翌朝は片付けから始めるという習慣の延長線でしかない。早くこの空間を楽しみたいとゴミの分別もそこそこにテーブルを拭き上げた。

    2か月ほど前に買ったもののまだ読めていなかった閻連科の本を開き、あとがきから読み始める。ゆっくりとページを繰り、漸く物語本編を読もうというとき、夫が起きてきた。いつもより近い太陽にまだ十分に目の開かない顔を晒す。
    手を繋いで辺りを歩いた。ふたりだけの穏やかな空間がどこまでも続くようだった。しかし歩くほどに非日常を実感させられ、私たちの所有物でないこの空間を惜しむべく、涼やかな空気を思いきり吸い込んだ。ホテルに戻ると、夫の友人も起きてきた。他愛もないことを喋り合っているうちに、いつの間にか夜と朝が溶け合う所有権を主張するには特定しがたい曖昧な時間は完全に過ぎ去っており、はっきりと輪郭を持つ今日という日が始まっていた。