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霜柱
西日本は大寒波に見舞われているという朝、横浜に住む私もきっちり着込んで散歩に出かけた。裏起毛のパーカーは首元まできっちり閉めると少し窮屈で、知らぬ間に背中が丸まってしまう。日頃から姿勢には気を付けているのだが、あまりの寒さに背筋を伸ばす気力も縮こまってしまう。
家の近くまで戻ってきたとき、ある街路樹の根元の土がボコボコと盛り上がっていることに気づく。毎朝通りかかるが、今まで注意を払ったことはなかった。俯きがちに歩いたことの奇利となるか。もしやと思いかがんでみると、そう、霜柱が立っていた。閃いたと表現するのがぴったりなほど縁遠くなっていたその単語との再会に頬が紅潮するのを感じる。
霜柱なんて4年前に東京でひとり暮らしを始めてから見ていないのだ。東京での初めての冬、東京の地面はアスファルトに覆われているために霜柱も凍った水たまりもないのだと気づいたきり、その存在をすっかり忘れていた。1本の街路樹を囲む分だけの広さの土は、もともと水分も少なく締め固められてもいるから、細い氷の柱で土を持ち上げるのは大変なことだったはずだ。しかし、夜のうちにやっとのことで育ったそれを、私は踏みしめたくてたまらない。小学生の時、いや大学生になってもなお、庭の霜柱を踏んで出かけていた冬の朝を思い出す。サクッ、パラ。かかとから足を置くとそのとおり靴の下でかかとからつま先へと土が沈む。一度踏んだところではもうあの感覚は得られないから、もう一回もう一回と繰り返し足を踏み出し、道路にたどり着くまで庭に一本の足跡の線を作っていた。
一息によみがえる喜びについ辺りを見回す。しかし、足で踏み込もうと立ち上がろうとしたところで私はもう実家の庭先で喜ぶ末娘ではないのだと思い直し、しゃがんだまま人差し指で一塊の土を倒す。パラっと崩れる感触に胸が高鳴る。一方その高鳴りにきまりが悪くなり、そそくさと立ち去る。
逃げ帰る中、この冬一番の嬉しいことはこれに決まりだろうと確信する。
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おでん奉行
数年前、某コンビニチェーンがおでんのパック販売を始めた。レジ横におでん鍋を用意し客の注文に応じて取り分ける従来の販売方法と比べ、チルド食品としてパッキングすれば賞味期限も伸び、フードロスが削減できるほか、仕込みや片付け等店員の手間も減るという。また、レジ横販売は販売時間が限られているため、24時間いつでもおでんが買えるのは客にとっても嬉しい。会計に並ぶ人の購買欲を掻き立てるレジ横販売からパック販売へ転じたことでおでんの売り上げは落ちたというが、この冬、他のコンビニチェーンの多くも感染症感染対策の一環としてこの方法を取り入れた。
しかし、しかしだ、おでんとはそういう食べ物ではないだろう。
大根やこんにゃく、練り物にたまご、何種類もの食材がごろごろと一つの鍋に詰められ湯気を立てる。私たちは時の経過と共に変わる味わいのタイミングを見計らいながらその瞬間食べたいものを選び、味わう。これがおでんだろう。それなのに、作る側が勝手に「ひとりぶん」を選んで食べさせるとは、何と傲慢か。それを喜んで受け取り、与えられたままに食べるとは、何と恥知らずか。
そもそもだ、夕食におでんを食べたいのならば、昼間から仕込むべきなのだ。朝一番に練り物屋へ走り、ショーケースいっぱいの出来立てを吟味する。特に揚げ物は、野菜や魚介等様々な具材が細かく切られ混ぜられ、見た目にはどれも変わらない。時にはユニークな商品名がつけられ、いよいよ味のイメージが湧かないものさえある。それでも店に信頼を置き、少ない情報をもとに今夜のおでん種を選ぶ。そして家に戻り大根やこんにゃくの下処理をする。これを疎かにすると、その種の味が鈍くなるだけでなく、独特の苦みや臭みが鍋に充満しおでん全体を台無しにしてしまう。また、様々な具材から出るうまみを期待し、出汁は簡単に済ませていいかというとそういうものでもない。おでんの美味しさは、鍋の土台となる出汁の味わいと種の持つ個性との掛け算による。我が家のおでんは手羽元から出汁を取らなければ決まらない。下処理した種を煮汁で煮込み、冷まし、味が染み込むがままにさせ夜を待つ。そうそう、練り物はくたくたに煮るのではなく、鍋で温め食べるものだから、日中は油切りだけ済ませておけばよい。
そして夕食時、卓上コンロにかけた鍋が再び温まるのを待ちながら、何から食べようか悩み、苦渋の決断で以て鍋の中からひとつを選ぶ。温かく、優しい味わいが身体に滲み渡る幸せたるや、言うに及ばず。これこそがおでんという食べ物だ。