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    全能感

    夜8時半、ジムに行こうと家を出る。仕事終わりにスーパーを出たときに降り出した雨はまだ降っていた。傘に当たる不規則な雨音が心地よかった。

    ランニングにも使えるスニーカーは水に弱いが浸みるほど雨は降っていない。

    夕飯のメニューは糖質高めだったがお昼は食べ損ねている。

    Tシャツにスパッツ姿だが暗いから目立たない。

    ジムとは別の方角へ歩き出す。財布は持っていない。

    高層ビルの光がぬらぬらと運河に揺らめく。

    濡れた道路を車がサーーーーーっと音を立てて走り抜ける。

    新豊洲駅の交差点で雨がやんでいることに気づいて傘をたたむ。

    1時間ほど歩いてようやく市場前駅に着く。

    屋上緑化広場へ繋がる水産中卸売場棟のエレベーターを目指す。

    明朝に向け、青果棟へ吸い込まれていくトラックを尻目に広い歩道を歩く。

    エレベーターを降り、5階の高さに位置する歩道に立つ。遠く光の点が水平線を引くだけで目線には障害物がなく、雲に覆われた暗い空が広がる。足元灯がまっすぐ延びる歩道を照らすが、誰もいないことがわかるばかりだ。

    少し緊張しつつさらに階段を上がる。

    上りきり、まずはオレンジ色の東京タワーに目が行く。

    庭園の縁まで行こうと足を進めるとスニーカーの裏に芝生を感じた。踏みしめたその瞬間、両腕が翼に変わるような感覚があった。

    六本木や赤坂、レインボーブリッジの光を前に、広い放たれた空間でひとり大きく息を吸う。

    それだけで満足してしまった。体力のあるうちにと、来た道を1時間かけて戻る。

    東京らしい景色が好きだ。

    うまくいかないことがあるとよく永代橋から佃島を望み、目の前のことに精一杯で窮屈な毎日の所在を確かめる。

    何かになれるという希望が私を生かすのだ。

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    父の日の前の週の出来事

    「いつ帰るんだ」

    土曜日の朝、食事が済み、新聞を広げた父が問う。

    金曜日は夜遅くに帰省したので、父と食卓を囲むのは2か月ぶりだった。

    帰省といっても、ひとり暮らしをする東京から埼玉の実家は電車で2時間程度なので、いつでも帰れるし、いつでも会える。両親とおなかいっぱい朝食を食べたら久しぶりの実家を満喫した気がして、昼前には戻ろうかと考えていたくらいだった。

    しかし、父にそう聞かれると、もう家を出るとは言いづらかった。

    いつでも帰れるし、いつでも会えるけれど、いつでもは帰らないし、いつでもは会いに行かない。電車に2時間乗るには何でもいいから理由が必要だった。

    今回は、函館土産を渡したいから帰っておいでと母に呼ばれ、夕飯まで一日実家で過ごすつもりだった。本を読んだり勉強をしたりするつもりで重いバッグを提げてきた。でも、なんとなくひとり暮らしの部屋に戻りたくなっていた。早々に戻ったところで何もしないかもしれないが、何かしたいと思ったときに動きやすいからだ。そわそわしていた。

    母が「いつ帰るんだ、なんて、早く帰ってほしいみたいじゃない」と笑う。父は新聞からちらりと目を上げ「そうじゃないんだ」と返す。

    父が、客人が帰り、日常に戻れるのがいつなのか算段しようとしたわけではないことを私は知っていた。私の帰省を楽しみにしていたなんて口が裂けても言わないし、嬉しそうな素振りも見せなければ不在にしている間のことを聞きもしない。それどころか、さっさとひとり新聞を広げてろくに会話もしようとしない。それでも、父は私に長く実家に居残って欲しがっている。なんだそれ、とも思うのだが、私には分かってしまう。

    父の頭の中はやらなくてはならないこと、やりたいことでいつもいっぱいだ。娘が帰省しても一緒に出掛けたりするほどの時間は割けない。娘が元気そうで、家の中の空気が少し変わるだけで十分なのだ。ただ、それがほんのちょっとの時間だと寂しいから、ただ、自分が慌ただしくして知らない間に私が帰ってしまうと寂しいから、不器用な父は私の帰る時間をそんな風に確かめる。

    父がそう語るわけではないのが、私はあまりにも父に似ているので分かる。親の心子知らずと言うほど、もうそんなに子どもじゃない。

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    小学3年生とおとな

    5月も後半へ差し掛かる頃、さわやかな快晴の日が続いた。広々としたところで本を読んだらさぞ気持ちよかろうと思い、土曜日の朝、早く起きられたので千葉県佐倉市にあるDIC川村記念美術館へ行った。この美術館はさまざまな植物が植えられた庭園を有しており、新緑のこの季節はブナ林が特にきれいだ。

    園内を一通り散策して、レストハウスのテラスで本を読む。頭上にかかるまだ明るい緑の柔らかな葉から透ける光が風に合わせてちらつき、その度に顔を上げるのでなかなかページが進まない。遠くに目を遣れば、芝生で遊ぶ家族や木陰で休む恋人連れに気づく。楽し気な雰囲気に惹かれてしばらくぼんやりと眺める。

    日が暮れるまでずっとこのまま、本に手を添えながらここに座っていたかったが、夜に人との予定があるためそれはできなかった。最後にもういちど庭園を回ろうと、まだ日が高い時分に重い腰をあげた。

    来たときは正体がわからなかった、ボチャンと水に入る生き物の正体を確かめようとハス池を覗いていると、小学生くらいの兄妹が隣にやってきた。ファミリー向けのアウトドア用カートに妹を乗せ、お兄ちゃんがそれを引いていた。妹はカートから身を乗り出し、お兄ちゃんは池の淵にしゃがみ込む。そばであんまりにも楽しそうにしているものだから、つい、何がいるのかと尋ねたところ、カメがいるとお兄ちゃんが教えてくれた。そのまま立ち上がって「いつもこっちにいるんだよ」と言いながら歩いていってしまうので、ついて行っていいものかと迷いながらも後を追う。

    お兄ちゃんは「ゲンカメいるかな~」と池の淵をそっと歩く。何も答えないでいると「赤ちゃんかめのことをお父さんがゲンカメって呼ぶの」と私のほうを見上げる。今年の冬に生まれた弟がげんちゃんなのだ。

    私のほうが先にゲンカメを見つけた。「いたよ!」と声を上げると、妹がカートの上で立ち上がるので、お兄ちゃんは手を貸して降ろしてあげた。

    ほかにもゲンカメはいないかと、日向ぼっこしているカメが驚かないように3人でそっと池の周りを歩いた。しかし、ゲンカメを見つけられないうちに、私は帰りのバスの時間が心配になり「そろそろ帰らなきゃ」と切り出すと、お兄ちゃんが「もう帰っちゃうの」と聞いてきた。

    はしゃぎたい盛りの子どもたちに不用意に声をかけて、池淵に留め置いていたのを心苦しく思っていたので、名残惜しそうにしたのは少し意外だった。

    私の知っている子どもというのは、大学生のときにしていたバイトの子ども向けイベントにきている子どもたちで、偶のショッピングセンターへのお出かけのためか、彼らは目いっぱい親に甘えていた。ほしいものをねだり、帰りたくないと服の裾を引っ張ってもう少しもう少しと楽しい時間を引き延ばす。かわいらしかった。

    しかし、小学3年生のお兄ちゃんは、その子らよりちょっと大人で、優しかった。名残惜しそうに見せても、無理を言おうとはしない。だから、私が甘えたくなってしまった。

    「林の入り口まで送ってくれる?」とお願いした。バス停へ続くブナ林への入り口は、ご両親の目の届く範囲ではあるが、ハス池からは少し距離がある。それに歩いて見送ってもらうだけだから3人で遊ぶわけでもない。それを分かった上でお兄ちゃんは快諾してくれた。

    しかし、カートを引きながら歩くには遠いようで、妹には待つよう言いおいて私と並んで歩き始める。

    「高校生?」と聞かれて驚く。なんと答えればいいのか分からず「大人だよ」と言う。その答えに満足していない顔をするので「いつもはお仕事してるの」と付け加える。

    それでも物足りないようで、ようやく気づく。小学3年生のことを全然知らないな、と。私も小学3年生を通ってきたはずなのだが、もうだいぶ遠い。

    「大人」という答えには満足できないが、「会社員」と答えたとき、彼は理解できたのだろうか。しかし、高校を卒業したのは何年前だったかと数えなくてはいけないような私に高校生かと聞くほどに彼は小学生だ。

    ブナ林の入り口までたどり着き、ありがとうと伝えると、さらにバス停まで送っていくと申し出てくれた。お母さんたちから離れちゃうからと断ったが、彼はいきなり走り出す。ハイヒールで林を走るのは大変で、引き離されながらついていく。

    途中、開けたところにベンチがあり、ちょこんと座って待っていてくれたが、私には座らせる暇は与えてくれず、立ち止まろうとする私の手を引いてずんずん先を行く。

    きらきらと光が差すブナ林はきれいで、今日はそれを楽しみに来たはずだったが、ゆっくり眺める余裕はなく、彼が一方的に話す学校での出来事にうんうん頷いているうちに間に林を抜けてしまった。息は上がったままだが、とりあえず、再度「送ってくれてありがとう」と言うと、彼は「じゃあね」と手をふらりと挙げ、きた道を引き返してしまった。

    拍子抜けだ。

    遠慮の言葉は意にも介さずさらりと手を引いて一緒にいてくれるのに、そんなにあっさり別れてしまうなんて。

    私、そんなにつまらなかった?